盛岡山車の演題【曽我兄弟】
 

曽我兄弟(壽曽我・草摺引き・夜討ち曽我)

 



 盛岡の山車に出る2体の歌舞伎演題には、曽我兄弟(そが きょうだい)の仇討ち物語に題をとった作品が多い。
 兄弟は兄を十郎祐成(じゅうろう すけなり)、弟を五郎時致(ごろう ときむね)という。1体歌舞伎の『矢の根五郎』や『雨の五郎』は曽我五郎を象った盛岡山車を代表する歌舞伎演題であり、山車通は「五郎」というだけで誰を指しているかすぐに分かる。「五郎」は「ごりょう」に通じ、御霊信仰(ごりょうしんこう:現世を怨んで死んだ人のたたりを恐れ、神として祀ること)と関連して曽我が愛好されたともいうが、やはり山車の起源も御霊信仰につながるものであるから、古くはこういう意識から曽我の山車が作られたのかもしれない。

『寿曽我』盛岡市神子田町さ組平成19年
 曽我の仇討ちは、鎌倉時代に実際に起こった「源頼朝夜襲事件」である。幕府発足直後、もっとも厳重であるべきトップの枕元がたった2人の暴漢によって掻き乱されたのは、当時としては大変な衝撃であった。この事件で弱さが露呈した鎌倉幕府は、後に三代で頼朝の血筋が途絶え、北条一族に乗っ取られてしまう(執権政治)。北条時政が曽我兄弟を篤く庇護していたので、政敵抹殺を謀る一策であったとの「北条黒幕説」も古くから語られているところだ。
 兄弟の父は河津祐通といい、御前相撲で大口を叩いていた優勝候補を「河津がけ」という技を使って打ち負かしたため、逆恨みされて帰りの夜道で暗殺された。河津の妻は幼い兄弟に父の仇を討つよう涙ながらに諭し、兄弟は母が別の夫に嫁いだ後も志を枉げず(ゆえに「河津兄弟」ではなく「曽我兄弟」となる)、富士の巻き狩りの夜、幕府の高官工藤祐経(くどう すけつね)を討った。本懐を遂げた兄弟は、咎により処刑されたり、あるいは逃亡を続けて生き長らえたりするのを恥と考えた。そこで、日本一のつわものと太刀を交えて死ぬために、将軍頼朝の陣屋に入って護衛と戦った。十郎は仁田四郎に討たれ、五郎は御所五郎丸(ごしょの ごろうまる)に生け捕られて刑死する。兄弟は、いずれも短い生涯を仇討ちのためだけに生きたのである。

 歌舞伎そのものが著しく曽我に傾倒し「江戸の歌舞伎は曽我で持つ」などといわれていることも、曽我ものの山車の多さの一因であろう。一方で、その人生すべてを不毛な仇討ちに賭し宿願を果たしてすぐ落命した兄弟に、風流山車に呼応するべき精神構造が感じられることも見逃してはならない。





盛岡市厨川や組平成8年
1、壽曽我(ことぶき そが)

 『吉例(きちれい)寿曾我』、『寿曽我 対面の場』などと題がつくこともある。
 給仕に化けた曽我兄弟が、はじめて父の仇の工藤祐経と対面する場面である。新春歌舞伎の顔見世として演じられ、曽我兄弟は水色の裃に十郎は千鳥・五郎は蝶をそれぞれ染めた色鮮やかな格好で、片手に島台を持って登場する。五郎の髪が童子の髪、十郎の髪は月代のない成人の髪で、感極まって祐経につかみかかろうとする五郎を、片膝をついた十郎が制している。激情の五郎を荒事、思慮深い十郎を和事として演じ、2人の見せる見得の型は「鶴亀」というらしい。背景には格子模様の障子を飾る。色彩のあでやかさは盛岡山車歌舞伎演題の中でも一二を争い、大変人気の高い演し物である。

 寿曽我の山車は、昭和59年に盛岡の本組が初製作し、後に平成5年石鳥谷町上若連、平成8年盛岡厨川や組と続いた。盛岡のさ組は、五郎が工藤から与えられた杯の木の台を打ち壊して暴れている場面を製作し、定型に一案を加えた。対応する見返しとして、朝比奈の妹『舞鶴(まいづる)』や、寿曽我上演の際の前座『娘七種(むすめ ななくさ)』が考案されている。


(音頭)
名題成田屋 歌舞伎の十八番 寿曽我で 初春(はる)を呼ぶ
江戸の初春
(はつはる) 寿く(ことぶく)曽我の 梅も盛り(さかり)の 紅(べに)と白
富士の御狩
(みかり)は 皐月(さつき)の候と 心秘めつつ 時を待つ
朝比奈
(あさひな)手引きで 祐経(すけつね)対面 決意固めし 曽我兄弟
権勢を誇る 祐経見据え 河津
(かわづ)の遺児が 見得を切る
蝶に千鳥
(ちどり)の 長裃(ながかみしも)に かざす島台(しまだい) 曽我の遺児
梅も牡丹も 源平競い 鶴亀見立ての 花が咲く
尋ね当てたる 不倶戴天
(ふぐたいてん)に いま吹き戻すか 天ツ風(あまつかぜ)
祐経情けは 狩場の手形 逸る心を とどめおく
勇み逸りし
(はやりし) 五郎を留めて 富士の狩場に 夢馳せる




石鳥谷上若連平成7年
2、草摺引き(くさずりびき)

 『根元(こんげん)草摺引』、『正札附根元草摺』などと題が付けられている。
 五郎は、兄の十郎が高官たちに嬲(なぶ)られていると聞いて助けに行こうとするが、後見人の小林朝比奈(こばやし あさひな)は短気を起こさぬようにとこれを引き止める。五郎は聞かずに飛び出そうとする。朝比奈は、五郎が衣の下に着ていた逆沢潟(さかおもだか)の鎧の裾(草摺)を掴んで離さない。人毛の綱で頑丈に作られているはずの鎧の草摺は、引き合う二人の怪力で引きちぎれてしまう。朝比奈は重要な役割だが道化の隈取で、若々しい剥き隈の五郎と滑稽な蟹隈の朝比奈、2人の対比が実にユニークな作品である。

 ともに赤い着物をまとい、五郎は片手に太刀を持ち、2人の間に立派な赤い鎧を据えて引き合いの場面を描く。主題をわかりやすくするため、歌舞伎の草摺引では鎧を手に持って引き合う。赤い衣装に入っている文様は、鎌の絵と丸印、平仮名の「ぬ」で、続けて読むと「かまわぬ」と読める洒落の図柄である。盛岡三番組、石鳥谷上若連などが山車に作ったほか、盛岡のさ組が鎧を頭上に高く振り上げた一体ものの草摺引五郎を作っている。古い絵紙(昭和30年盛岡三番組、初の多色刷りの番付)を見ると、五郎朝比奈とも現在のものよりはるかに豪華な装束で鎧を引き合う構想であったようだ。


(音頭)
曽我の絵巻を その草摺り(くさずり)に 五郎朝比奈 引き競う
和田の館で 困りし十郎
(あに)を 鎧片手に 時致が
蝶も華やか 鎧を高く 三枡
(みます)歌舞伎の 見得の佳さ





盛岡市八幡町い組昭和62年
3、夜討ち曽我(ようち そが)

 苦節十八年の末、巻狩りの好機を得て曽我兄弟はいよいよ父の仇、工藤祐経を討ちに行く。狩場にはさなぶりの雨が降りしきっている。蓑を纏った兄弟は闇夜に松明をかざし、苦節の末に迎えた仇討ちの感慨を語る。

(昭和晩期から平成にいたる『夜討ち曽我』)
 五郎は浅黒い肌に黒に蝶の舞う衣の立ち姿、一方の十郎は色白に千鳥の舞う青い衣をまとい、膝をついている。近年は、盛岡の八幡町い組が5年に1回製作する他はほとんど製作されていない。同様の構図は石鳥谷でも若干作られているが、主に盛岡流でなかった山車組が盛岡流の形をきちんと整えた年に、登竜門のようにして作っているようだ。

(昭和50年ころまでの『夜討ち曽我』)
 実際の討ち入りの場面を描いた作品もあったようである。盛岡のか組は、女装した御所五郎丸が後ろから曽我五郎を羽交い絞めに捕らえる場面を山車にした。五郎丸は討ち入りの日の昼間、狩場に潜む曽我兄弟の姿に気付いたが敢えて見逃し、本懐を遂げさせた後でこれを捕らえた。五郎は本気を出せば五郎丸から逃れることもできたが、このときの恩義を返すため、わざと捕らえられたとの美談がある。一戸の西法寺組では、十郎と仁田四郎忠常との一騎打ちの場面が登場している。一万(いちまん)、箱王(はこおう)といっていた頃の子供の曽我兄弟の山車も戦前に出た。蓑を纏った五郎十郎の2体についても、現在い組が出している構想とは違い、ともに立ち姿で十郎が松明、五郎が刀を手にしている構図であった。

 対応する見返しとして、十郎の恋人の女郎『大磯の虎(おおいその とら)』(虎御前)が工藤祐経の屋敷の戸を開けて曽我兄弟を引き入れる場面を飾る定例がある。こちらも現在は盛岡の八幡町しか作っていないが、以前は広域で作られていた。




(音頭)
富士の裾野に 鳴く秋虫も 勲(いさお)偲ぶや 夜討ち曽我
二人比丘尼
(びくに)や 墨染めの 思いはかなし 曽我の里
富士の嵐か 十郎五郎 狙うは工藤 父の仇
富士の狩場の 五月雨
(さみだれ)ついて 父の無念と 舘(やかた)ふむ
十八年の 春秋を 心にかけし 父の仇
蝶に千鳥ぞ 其の名も曽我と 富士の裾野に 夜の雨
富士の裾野の 工藤の舘に 報いてともに 散りにけり
松風寒し 鳴く虫も 後の世までの 語り草
門出の三衣
(さんえ) 胡蝶に千鳥 親が情けの 狩り衣(かりごろも)
工藤のやかた 富士野は深し 河津の遺児が 忍ぶ夜半(よわ)

(※大磯の虎)
廓の太夫(たゆう) 大磯育ち 虎が手引きの 夜討ち曽我
仇を報いし 狩場の雨に 情けも深き 虎御前




(備考)風流 五郎時致

 単に『五郎時致』とだけ題をつけた歌舞伎山車が盛岡祭りに2度ほど出た。筋隈取ではなく若者隈の「剥き身」を取った二枚目の五郎の姿であり、三番組では廓で喧嘩に興じる場面を作った。ほかに、足の怪我が治って力試しに石を踏むと足形が残ったという『五郎踏み石』という山車が出たことがある。

(※風流 五郎時致)
富士の暁(あかつき) 裾野になびく 曽我の五郎の 艶姿
廓通いは 五郎の姿 花の舞台に 見得を切る

(※風流 曽我五郎踏み石)
今に伝わる 五郎の踏み石 足の病と 祀られる
曽我の五郎が あだ討つために 病の足で 石を踏む
花は牡丹か 揚羽
(あげは)の蝶か 五郎石踏み 見得を切る





【他地域の曽我兄弟の山車・祭りの中の曽我兄弟】
「御所五郎丸」秋田県角館町(購入写真)

 歌舞伎山車が得意な山形県の新庄祭りでは、壽曽我が兄弟のほか工藤・舞鶴を備えて作られており、工藤が兄弟に富士の巻き狩りの通行手形を渡して正々堂々勝負を挑む場面としている。人形ねぶたには見られない演題であり、角館の飾山でも盛岡と同じ型の寿曽我は珍しい。
 草摺引きは歌舞伎仕立てでなく作る例が青森方面(ねぶた、久慈の山車など)で見られた。五郎が着ている鎧の裾を髭を生やした朝比奈三郎が抱きつくように掴んでいる姿である。赤い衣の歌舞伎風の五郎1体飾りに草摺引きと題をつけた山車が、宮城の登米で工夫されている。盛岡山車に近い構想はやはり他地域では試みられていないし、盛岡山車において他地域のような武者仕立ての草摺引きも工夫されていない。なお、北上市などで踊られている郷土芸能「鬼剣舞」の演者は腰に大きな茣蓙を下げているが、この茣蓙に描かれている絵柄が草摺引きの錦絵であり、当地では「安倍貞任図」であるといわれている。
 夜討ち曽我については、上に紹介したほかに兄弟が工藤の寝所にいたって本懐を遂げる姿も採り上げられているようで、青森ねぶた、秋田土崎曳山などで工夫されている。五郎丸が振袖をかぶって五郎に近づく姿は角館、新庄など日本海側の人形山車で数例見られる。五郎丸は隈取の入った歌舞伎風の仕立てである。
盛岡市見前宮崎神楽『十番切』
 山車だけでなく、神楽の世界にも曽我物といわれる演目群があり、五郎が頼朝陣屋に入って護衛10人を一気に切り殺したエピソードを『十番切り』と題をつけて上演しているほか、特に岩手県北から青森県南部地方にかけて『曽我兄弟』を役舞に加えている神楽座が多い。2人で演じる武士舞である。また同地域には「とらじょうさま」という盆歌があって、これは遊女をはやし立てる歌詞であるが、とらじょうとは「虎女」で、虎御前を指している。曽我兄弟を助けた虎御前は遊女の代名詞となり、虎女がそのまま遊女の意味で使われるようになった。

※「夜討ち曽我」 秋田県秋田市





文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
寿曽我対面 盛岡本組
盛岡や組(本項)
石鳥谷上若連
盛岡さ組(本項)
秋田角館 盛岡本組(富沢)
盛岡や組(富沢)
盛岡さ組
石鳥谷上若連
根元草摺引 石鳥谷上若連(本項)
盛岡さ組
盛岡城西組見返し
盛岡三番組@
盛岡三番組A
盛岡三番組(香代子)
盛岡さ組

石鳥谷まつりチラシ
盛岡三番組(富沢:色刷)
夜討ち曽我(五郎十郎) 石鳥谷上若連
盛岡い組@(本項)
石鳥谷西組
盛岡い組A
盛岡い組B
盛岡い組
盛岡本組
盛岡い組(富沢押絵)

盛岡い組(富沢)
盛岡本組・平舘い組・盛岡三番組(富沢)
夜討ち曽我(五郎五郎丸) 盛岡十文字
盛岡か組
秋田角館(本項)
盛岡か組
夜討ち曽我(十郎仁田四郎) 一戸西法寺組
一万箱王 盛岡大工町 盛岡大工町(色刷)
五郎時致 盛岡よ組
盛岡三番組
盛岡よ組
盛岡三番組(富沢)
富沢押絵
五郎の踏み石 盛岡の組 盛岡の組
大磯の虎 盛岡い組@AB 富沢氏下絵
ご希望の方は sutekinaomaturi@hotmail.co.jpへ

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