盛岡山車の演題【風流 雨の五郎】
 

雨の五郎

 



「巻物なし」盛岡八幡町い組昭和61年

 忠臣蔵の大石蔵之助が敵の目を欺くために、わざと花町に入り浸って遊び回るくだりを真似たものであろうが、日本最古の仇討ち物語「曽我物語」に同じような話がある。

 時は鎌倉時代の初め、父を工藤祐経(くどう すけつね)に殺されてしまった曽我兄弟は、十八年の苦難の日々を経て、富士の巻狩の夜に仇討ちを果たす。長唄舞踊「雨の五郎」、もともと「八重九重花姿絵(やえここのえ はなのすがたえ)」という変化舞踊の中の1曲「五郎時致」の通称で、曽我兄弟のうち弟の曽我五郎時致(そがのごろう ときむね)が敵の目を欺く為に、毎夜毎夜めかし込んで花町に通う姿を踊ったものである。と同時に、短い生涯すべてを仇討ちに賭して早世した兄弟への同情が生み出した、華やかな恋の逸話でもあろう。花町に煙る雨は仇討ちに逸る五郎の心を冷ます柔らかな雨、山車は遊女『化粧坂(けわいざか)の少将』からの恋文を喜んだ五郎が、紫頭巾の若衆被りに金糸銀糸の羽織を纏い、黒に赤い鼻緒の下駄を履き番傘を差して吉原仲ノ町へと駆けて行く姿である。端を赤く縁取った「天紅(てんべに)」の巻手紙を両手に余してだらりと捧げる伊達姿に、男ながらの色気が漂う。

「巻物・白」沼宮内新町組昭和60年

 調べてみると、定番といえる盛岡山車歌舞伎演題の中では初回構想が昭和50年代中頃と、意外に歴史が浅い。盛岡市の八幡町い組が最初の雨の五郎を作り、その後のバリエーションもほとんどい組が切り拓いている。それ以前も、例えば前髪に蝶の紋の入った紫どてらの五郎であったり、遊客一人を組み伏せ見得を切る紅白格子の着物の五郎など「雨の五郎を思わせる構想」はあったが、いずれも『五郎時致』と題がつけられていて、トレードマークの傘や頭巾を伴わない場面を採り上げていた。山車祭りを台無しにする「雨」を避けようとの心持ちがあったのかもしれない。初回の『雨の五郎』は恋文の巻物を両手にささげ、胸の辺りで真一文字に広げる姿に作られた(この時の構図は今も、押絵番付となってい組に引き継がれている)。次に、手紙を省いて番傘だけで見得を切る構図が山車になった。ともに甲乙付け難い見栄えの良さで、以降どちらの構図もよく作られるようになった。紫頭巾は鉢巻ではなく頬かむりに結び、額に前髪をちらりとのぞかせるのが粋である。衣装には、白を基調とするものと黒を基調にするものがあるが、どちらかといえば照明に映える白がよく使われている。サテン地のような光沢のある生地を使うと、山車の色とりどりの光が着物に反射して効果的である。黒衣装の『雨の五郎』もい組が初めて採り入れたものだが、高級感があり、特に暖色系の照明の下でよく映える。本来の正統は黒衣装で、白は喪を表す縁起の悪い色だとの話も一部に聞かれる。小道具の手紙の文面はい組の場合、当年の祭典関係者の名を連ねたものである。

※い組『雨の五郎』の伝承経路(下記の流れが傍からさらに模倣、修正された)
@盛岡八幡町い組昭和56年、白装束巻物あり→A石鳥谷上若連昭和58年→B沼宮内新町組昭和60年→C盛岡八幡町い組、巻物を除く(昭和61年)→D盛岡さ組平成4年、E盛岡の組平成9年 C盛岡八幡町い組、黒衣装で作る(平成元年)→D石鳥谷上若連平成3年



「巻物・黒」石鳥谷上若連平成21年(提供写真)

「巻物・黒」盛岡八幡町い組平成元年

(盛岡市内の山車組による作品)

 個人的に、い組の雨の五郎のうち最上の仕上がりは、巻物を広げずに番傘を高くかざして見得を切る昭和61年の作と思う。手紙を省いた雨の五郎はい組ではこの一度きりであるが、平成に入ってからはさ組・の組が構図を真似、盛岡市内での主流の型となっている。さ組が出したのは一度だけで、絵紙は個性的な絵柄のい組の白黒番付に彩色を加えたものであり、当時名作の影響力を強く感じた記憶がある。の組は雪洞と柳を添えて雨の五郎を作るが、現在のい組の雨の五郎には見られない小道具である。さ組・の組とも傘を持つ手は曲がっていて、い組のような高く掲げる形ではなかった。また蝶の刺繍がい組のものより単純で、色数も減らして表現されている。
 城西組は、黒衣装・巻物無しの雨の五郎を見返しに飾った。小さな傘をかざしたなかなか面白い構想で、初出の平成10年以降も何回か登場している。同じく盛岡のか組でも、昭和期に見返しで雨の五郎を出している(傘と巻物を伴う黒衣装の仕立て、題は『五郎時致』)。


見返しの雨の五郎(一戸町橋中組平成20年)

(盛岡市周辺の山車組による作品)

 巻物を伴った作品は石鳥谷町で数例試みられている。名手と名高い上若連は、長身のすらりとした五郎を黒装束で仕立てた。手作り山車の西組もなかなか優美な五郎を作っている。県北唯一の歌舞伎組として知られる一戸町の西法寺組では、巻物無し・巻物付きをそれぞれ白装束で作り、まとまりのある華やかな作品に仕上げた。
 紫波町日詰の上組が自作第一号に選んだ演題は『曽我五郎時致』で、黒装束巻物無しの雨の五郎が大きな傘を背中に広げる姿である。紫頭巾を着けず前髪の鬘を完全に外に出し、見返しにも五郎を迎える少将を飾るなど新たな試みを入れた。数年後の再作でも踊りの後半、紅白の市松模様の襦袢姿を採り上げ、従来の型を破った。これらはいずれも「い組が切り拓いたバリエーション」の数少ない例外に当たるものである。



『かむろ』盛岡八幡町い組昭和61年

(見返し 禿)
 対応する見返しとして、八幡町い組は初奉納当初から長らく『禿(かむろ)』を飾っている。禿とは、花町で遊女の世話をする下女のことで、赤い着物を着た少女たちである。ただ赤いだけではつまらないので、若梅の刺繍が両袖に入る。い組の禿は五郎に遊女からの手紙を届けにいく姿をイメージしているため、黒い文箱(ふばこ)を手にしている。

『羽根の禿』石鳥谷上若連昭和62年

 他の組ではこの構図をほとんど真似ておらず、羽子板を持った『羽根の禿(はねの かむろ)』を雨の五郎とは無関係に作っている。人形を小柄に見せるために少し大きな羽子板を使い、背景の暖簾も大きくし、傍らに大きな門松を添えた作品もあった。正月の三賀日に羽根突きをする禿は、日々のつらい勤めから開放されて明るい表情を浮かべている。


(他地域) 雨の五郎はあまり有名でない歌舞伎である。ほぼ同じ趣向のものに超有名な「助六」という芝居があるが、盛岡山車では助六よりはるかに多く雨の五郎の山車が作られている(他地域では、雨の五郎の山車など出たことがない)。助六の桜に対して雨の五郎は柳の青葉を背景に採り、前髪を残す雨の五郎のほうが助六より荒事らしくも見える。雨の五郎の着物は白黒いずれも蝶の刺繍が華やかで、助六の衣装より断然派手である。大人形に仕立てるにあたって、ちょんまげを結わねばならない助六に対し、雨の五郎の頬かむりのほうが作りやすいのかもしれない。角館(秋田)や新庄(山形)など県外の歌舞伎山車が盛んな地域を回ってみても、助六の山車は何度か見たが、雨の五郎の山車は一度も見つけられなかった。



文責・写真:山屋 賢一

(石鳥谷上若連・大迫若衆組の雨の五郎は読者様より)

(写真公開)

白・手紙  市松格子     羽根の禿(盛岡)   羽根の禿(石鳥谷)  



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
白に巻物 沼宮内新町組(本項2枚目)
盛岡い組@AB
石鳥谷西組
盛岡い組
一戸西法寺組
石鳥谷上若連
盛岡い組(富沢押絵番付)

盛岡い組・一戸西法寺組(富沢)
黒に巻物 石鳥谷上若連(本項3枚目)
北上黒沢尻十二区
盛岡い組@(本項4枚目)A
石鳥谷上若連

盛岡か組(見返し)
盛岡い組
白で傘だけ 盛岡い組(本項1枚目)
盛岡の組@A
一戸西法寺組
岩泉南沢廻
盛岡さ組 盛岡い組
盛岡さ組
盛岡の組@
盛岡の組A
一戸西法寺組(香代子)
岩泉南沢廻
黒で傘だけ 日詰上組
沼宮内愛宕組
日詰上組
紅白市松 日詰上組 日詰上組
見返し 盛岡観光協会
盛岡城西組
一戸橋中組(本項5枚目)
盛岡城西組
盛岡か組
風流 五郎時致 盛岡よ組
盛岡三番組
盛岡よ組
盛岡三番組(富沢)
禿 盛岡い組@(本項6枚目)ABC 盛岡い組@A
羽根の禿 石鳥谷上若連(本項7枚目)
盛岡観光協会
石鳥谷中組
盛岡城西組
提供・閲覧ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)


富士の暁(あかつき) 裾野(すその)になびく 曽我(そが)の五郎の 艶姿(あですがた)
廓通い
(くるわ がよい)は 五郎の姿 花の舞台に 見得を切る
五郎時致
(ごろう ときむね) 仇討つために 廓通いに 身を窶(やつ)
蝶も華やか 紅隈
(べにぐま)見せて 元禄(げんろく)夢想 曽我の見得
花と色との 大磯
(おおいそ)通い 五郎時致 化粧坂(けわいざか)
廓通いも 仇
(あだ)討つ為の 艶(つや)を含んだ あで姿
花町通いも 仇討つ為と 心秘めたる 伊達
(だて)
あでな衣装で 廓に通い かたき討つ為 仮姿
吉原
(よしわら)通いも 仇討つ為と 紫かむりの 伊達姿
色もゆかりの 紫かむり 梅香の匂う 春の雨
八重
(やえ)に九重(ここのえ) 十八番(おはこ)の歌舞伎 花の姿絵 当たり芸
(まと)う黒繻子(くろじゅす) 吉原通い 今宵霞(こよい かすみ)の 雨の五郎
親の仇
(かたき)を 裾野で果たし 濡れて廓の 化粧坂
翼ひらめく 胡蝶
(こちょう)のごとく 艶な姿の 曽我五郎
花の姿絵 歌舞伎の十八番
(おはこ) 雨の五郎の 艶姿
金銀蝶々の 舞い飛ぶ袂
(たもと) 花町袖振る 仲ノ町
廓五郎
(くるわ ごろう)と 艶名(あでな)を残し 見事本懐(ほんかい) 遂げし曽我
花の色町 大磯通い 春の装い 化粧坂
(けしょうざか)


※かむろ

かむろかむろと 声かけられて 羽(はね)つく姿 あどけなさ
梅は匂いぞ 桜は花よ 江戸の廓の 春景色
恋の色里 暖簾
(のれん)を分けて しどけなり振り 羽根かむろ
春の吉原 追羽根
(おいばね)突いて 笑う禿の あどけなさ
梅のすがたも 静かに濡れて 仄
(ほの)かな色香 春の宵
色香も知らぬ 吉原育ち 運ぶ文箱
(ふばこ)は 恋の文




 

【鑑賞試案〜本項掲載写真にて〜】

旧稗貫郡大迫町(提供写真)

(1枚目)盛岡市八幡町い組昭和61年、私が思う最高の雨の五郎。当時は尾上松禄の生き写しと絶賛され、祭典後は川口秋祭りの復活第一号の山車としても運行された。人形の体勢に力感があり、傘を上げる勢いが素晴らしい。(2枚目)沼宮内新町組昭和60年。沼宮内では当時歌舞伎の山車が非常に珍しかったそうで、この粋な歌舞伎山車を引き出したのは組の自慢であったという。先行する八幡町い組昭和56年の作では巻物を捧げる手の高さを左右で同じにしたが、新町組ではずらして動きを出した。現在はずらすほうが主流になっている。(3枚目)石鳥谷上若連平成21年、読者提供の写真。平成3年のリメイクで、残っていた当時の着物なども一部使った由。巻物に目線を落としているのが珍しく、8等身の上品でかっこいい仕上がりだ。(4枚目)盛岡市八幡町い組平成元年。巻物は斜めにたらすのが現在の主流であるが、この山車では真一文字の巻物でいかに見栄えを出すかに工夫の跡がある。黒い着物を着た雨の五郎を表に初めて採用した例である。(5枚目)一戸町橋中組平成20年の見返し。顔がすごく綺麗な塗りで、小ぶりな体躯がかわいらしかった。手の形が合っていないのも小さい傘も、皆愛嬌として好意的に見てしまえるのは見返しゆえである。夜は色とりどりの明かりを下から当てて、優雅に照らし出した。(6枚目)盛岡市八幡町い組昭和61年の見返し『かむろ』。人形が現在より良かった時期のもので、かむろにしては大人びて見えるが、気品のある人形である。(7枚目)石鳥谷上若連昭和62年、『矢の根』の見返しで『羽根の禿』。い組型の影響からか文箱を手にしている。着物など田舎びて見えるものの、石鳥谷では昔からこのテの高尚で優美な試みを見返しに採り入れていた。その素地が、今花開いている。(8枚目)ディフォルメが楽しい大迫のアンドン祭り、読者提供写真。手は無いが手紙が手前に出ているのが面白く、彩り豊かな一台であった。


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