早川鮎之介
戸板を背にした浴衣姿、乱れ髪の青年を飾った山車である。唯これだけのことでいかに魅力的に人形を演出するか、つくり手に相当の技量が求められる。現在のような戸板を背に負う形ではなく、両手で戸板を押さえる格好の鮎之助もあったようである(盛岡の川原町や、旧和賀郡東和町土沢の山車)。二番組では昭和58年に再度早川を製作しているが、滝に体を半分うずめたように作って水の技術を存分に見せた。人形の肩のあたりから波出し、細く作った滝の絵などが前方に降りている。水の表現そのものは早川に付き物として草創当時から工夫されていたが、二番組の場合は特に片側に集中させたため、印象が強まった。3回目となる平成18年にも、片肌脱ぎ・鉢巻・柄の着物でまったく趣を違えて作っており、二番組の名物演題として多くの観衆に印象を残している。 (ホームページ公開写真)
山中鹿之助(やまなか しかのすけ)の名で知られる尼子十勇士(あまこ じゅうゆうし)のうち、現代ではあまりにも一般に知られていないこの人物が、なぜ山車の演題に採り上げられたのか。私が長年感じている盛岡山車の謎のひとつである。浴衣一枚で清流に身を置く人形の涼やかさが好まれるのだ、ともいわれる。たしかに涼感のある、爽やかであっさりした演し物ではある。
山中鹿之助が山中を行軍しているとき、背に戸板を負い、病床の老父のために早瀬を堰き止めて鮎を取る怪力無双の少年を見つけた。類稀なる怪力と孝行心に感動し、鹿之助は「早川鮎之助(はやかわ あゆのすけ:盛岡二番組では「鮎之介」)」と名づけて少年を城に連れかえった。鹿之助が率いた尼子十勇士には皆、このような”場面を現す苗字に○○之助”というパターンの名前がつけられている。実在人物は鹿之助だけで、残りは全て講談話にだけ登場する架空の人物である。後に鮎之助は、敵に捕らわれた城主を救うため堀に潜水し、見事奪還する偉業をなす。

戦後最も早い復活例の一つとして、昭和22年に盛岡の二番組が鮎之助の山車を出した。当時の報道を見ると、「早川鮎之助の山車」と、演題名入りで山車が紹介されている。当時は一般によく知られた人物であったのかもしれない。二番組での製作以降裸人形の定番演題となった為、盛岡の山車好きの間ではかなりありふれたイメージがある。しかし、冷静に調べてみると、限られた団体しかこの演題を手がけていない。実は、裸人形数ある中でもこの早川というのが、飛び抜けて難しい演題といわれているのだ。
沼宮内のの組では、水の流れに沿わせるように一つ一つ鮎に動きを付け、また人形を前傾姿勢にしていかにも激流を受け止めているように作った。後々まで高い評判を得て再作もされ、この際には深緑色の浴衣を来た早川の背負う戸板に、水飛沫の白い吹きつけが施された。
絵柄のみが残ってしまった演題ということもあって、見返し対応はほとんど考えられてこなかったが、一戸の本組は表の早川に夏を表現し、見返しには秋の紅葉やススキを添えて、鎧姿の山中鹿之助を飾った。鹿之助は刀を抜いて天にかざし、上部には雲に隠れた三日月を飾り、「月に祈る武将」のモチーフを見事に再現している。
人形そのものに明確な動きが無いため、作り手の工夫にかなり多くの部分がゆだねられ、同じ早川と題を掲げた作品でも実物は千差万別、ここまで作り方にバリエーションを持つ演題も少ない。借り上げ習慣を持つ地域では派手さを欠くため敬遠されがちな一方、自作地域ではこの演題に取り組む組に昔から大変な敬意が払われていた。こういった双方相反する捉え方も含め、早川は裸人形演題の縮図であるといって良い。
他の地域では、山中鹿之助の山車はあっても早川鮎之助の山車は無い。ゆえに、盛岡山車の数ある演題の中でも早川は、特に大事に守っていかなければならない宝物の演題である。
文責・写真:山屋 賢一
| 提供できる写真 | 閲覧できる写真 | 絵紙 | |
|---|---|---|---|
| 早川鮎之助 | 沼宮内の組@(本項) 盛岡二番組(本項) 一戸本組(本項) 沼宮内の組A |
日詰上若連 日詰上組@ 日詰上組A 盛岡川原町 盛岡二番組 一戸橋中組 一戸本組 一戸野田組 小鳥谷山車 東和町土沢駅上組 |
盛岡二番組B(正雄:色刷) 一戸本組(正雄) 小鳥谷に組 一戸野田組@(国広) 一戸野田組A(正雄) |
| 見返し鮎之助 | 一戸橋中組 | 一戸橋中組 | |
| 山中鹿之助 | 一戸本組 二戸福岡愛宕 |
二戸福岡下町 青森ねぶた |
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| 荒波碇之助 | 秋田土崎 |