盛岡山車の演題【風流 早川鮎之介】
 

早川鮎之介

 



 戦国時代の荒武者 山中鹿之助(やまなか しかのすけ)の名で知られる尼子十勇士(あまこ じゅうゆうし)のうち、今となってはあまりにも無名なこの人物が、なぜ山車の演題に採り上げられたのか。私が長年感じる盛岡山車の謎のひとつである。浴衣一枚で清流に身を置く人形の涼やかさが好まれるのだ、ともいわれる。たしかに涼感のある、爽やかであっさりした演し物ではある。

 山中鹿之助が毛利元就に滅ぼされた尼子氏の再興をはかり山中を行軍しているとき、背に戸板を負い、病床の老父のために早瀬を堰き止めて鮎を取る怪力無双の少年を見つけた。類稀なる怪力と孝行心に感動し、鹿之助は「早川鮎之助(はやかわ あゆのすけ:盛岡二番組では「鮎之介」)」と名づけて少年を城に連れかえった。鹿之助が率いた尼子十勇士には皆、このような”場面を現す苗字に○○之助”というパターンの名前がつけられているが、実在人物は鹿之助だけで、残りは全て講談話にだけ登場する架空の人物という。後に鮎之助は鹿之助の期待に応え、敵に捕らわれた城主を救うため堀に潜水し見事奪還する偉業を成した。

盛岡市油町二番組平成18年

 戦後最も早い復活例の一つとして、昭和22年に盛岡の二番組が鮎之助の山車を出した。当時の報道を見ると、「早川鮎之助の山車」と演題名入りで紹介されており、当時は話題性を醸すようなよく知られた人物であったことを伺わせもする。二番組での製作以降裸人形の定番演題となった為、盛岡の山車好きの間ではかなりありふれたイメージがある。しかし、冷静に調べてみると、限られた団体しかこの演題を手がけていない。実は、裸人形数ある中でもこの早川というのは、飛び抜けて難しい演題といわれているのだ。

岩手町沼宮内の組平成12年

 戸板を背にした浴衣姿・乱れ髪の青年を飾った山車である。唯これだけのことでいかに魅力的に人形を演出するか、たしかにつくり手には、相当の技量と感性が求められる。戦前の作品には、現在のような戸板を背にする形ではなく、両手で戸板を押さえる格好の鮎之助もあったようで(盛岡の川原町や、旧和賀郡東和町土沢の山車)、歌川国芳の錦絵にも同様の構図が見られる。
 二番組では上記した戦後間もない作品に続き、昭和58年に再度早川を製作している。このときは凛々しい京人形仕立ての鮎之介の体を滝に半分うずめたように作って、水の技術を存分に見せた。肩のあたりから波出し、細く作った滝の絵などが前方に降りて、水の柱が立っている。水の表現そのものは早川に付き物として草創当時から工夫されていたが、この作品では特に片側に集中させたため印象が強くなった。3作目となる平成18年にも、片肌脱ぎ・鉢巻・柄の着物でまったく趣を違えて作っており、早川鮎之介は二番組の名物演題として多くの観衆に印象を残している。
 一戸の野田組が作った鮎之助は、それこそ一目でわかるように鮎の大群を胸元に配した。この作品以前は流れる水は描いても、鮎そのものに目立った表現を施す例は少なかった印象がある。同じく一戸の本組も何度か早川を作っているが、平成に入ってからの一作では鮎の模型を足元や肩の上、さらに山車の側面にまで細やかに散らして、夏の渓流の涼感を醸した。松の上から手具巣で釣られ、風に乗ってくるくる回る鮎もいた。他地域の早川が激流を堰き止める部分に描写を重くするのに対し、一戸では鮎を取る動作に一定程度の描写を割く傾向があるようである。橋中組では見返しに早川を作ったが、なんと浴衣さえ纏わない褌一枚しめただけの全くの裸人形に仕立てて、観衆の度肝を抜いている。
 上手な山車組として知られる岩手町沼宮内のの組では、水の流れに沿わせるように鮎に一つ一つ動きを付け、また人形を前傾姿勢にしていかにも激流を受け止めているように作った。この作品は町内外で後々まで高い評判を得て、10年も絶たないうちに再び同じ組で、同じ早川が手がけられた。再作時は美青年の趣を一転して筋肉隆々たる豪傑の風貌とし、深緑色の浴衣を纏う相撲取りのような早川の背の戸板には、水飛沫の白い吹きつけが施された。

 構図のみが残ってしまった演題ということもあって、早川鮎之助の見返し対応はほとんど考えられてこなかった。一戸の本組が表の早川に夏を表現し、見返しには秋の紅葉やススキを添えて鎧姿の『山中鹿之助』を飾ったのは大変風流で、高尚な試みである。鹿之助は刀を抜いて天にかざし、上部には雲に隠れた三日月を飾って「月に祈る武将」のモチーフを見事に再現している。同じく一戸の上町組は、十勇士に擁立され尼子再興の旗頭となった『尼子四郎勝久』を見返しに上げた。

 人形そのものに明確な動きが無いため、作り手の工夫にかなり多くの部分がゆだねられ、同じ早川と題を掲げた作品でも実物は千差万別、ここまで作り方にバリエーションを持つ演題も少ない。考えてみると、このような点が作り手や観客の心を躍らせ、早川の山車を待望させるのかも知れない。借り上げ習慣を持つ地域で派手さを欠くため敬遠されがちな一方、自作地域ではこの演題に取り組む組に昔から大変な敬意が払われていた。こういった双方相反する捉え方も含め、早川は裸人形演題の縮図であるといって良い。

『山中鹿之助』岩手県二戸市

 他の地域では、山中鹿之助の山車はあっても早川鮎之助の山車は無い。ゆえに、盛岡山車の数ある演題の中でも早川は、特に大事に守っていかなければならない宝物の演題だと私は考えている。





文責・写真:山屋 賢一


(ホームページ公開写真)

盛岡 一戸 沼宮内 日詰 小鳥谷(山中鹿之助) 一戸 岩手川口



本項掲載:盛岡市二番組H18・沼宮内の組H12・『風流 山中鹿之助』岩手県二戸市(平三山車)



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
早川鮎之助 沼宮内の組@(本項2枚目)
盛岡二番組(本項1枚目)
一戸本組
沼宮内の組A
一戸上町組
岩手川口井組
日詰上若連
日詰上組@
日詰上組A
盛岡川原町
盛岡二番組
一戸橋中組
一戸本組
一戸野田組
小鳥谷山車
東和町土沢駅上組
盛岡二番組B(正雄:色刷)
一戸本組・一戸上町組(正雄)
小鳥谷に組

一戸野田組@(国広)
一戸野田組A(正雄)
見返し鮎之助 一戸橋中組 一戸橋中組
山中鹿之助 一戸本組

二戸福岡愛宕
二戸福岡下町
青森ねぶた
荒波碇之助 秋田土崎
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

忍ぶ山中(やまなか) 鹿(しし)鳴く谷間 流れ早川 鮎之助
耐えよ忍べよ この闇底を 今に咲き追う 夜明け際
其の名早川 瀬音の響き 虹もわきたつ 鮎之助
おどる若鮎 流れを止めて 若き勇士の 名を残す
早瀬の岩に 戸板を立てて 怪力無双の 鮎之助
流れ早川 もろともせずに 男かけたる 勇み肌
流れ乱れて 飛沫のかすみ 胸は一途な 鮎之助
光る早川 名の介
(すけ)の字に はやる尼子の 十勇士
急流せき止め 怪力無双 聞くも勇まし 鮎之助
武勇早川 其の名も高く 尼子再興 十勇士
安芸
(あき)の国より 義久救い 殊勲(しゅくん)を残すや 鮎之助
流るる川に 戸板を立てて 勇む尼子の 鮎之助
後の早川 流れの鮎に 孝
(こう)の大力(たいりき) 世の鑑(かがみ)




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