盛岡山車の演題【風流 日本銀次】

日本銀次と火消しの山車

 



石鳥谷中組昭和62年

 盛岡地方の山車行事の担い手は、もともと町火消しであった(具体的には、江戸時代に南部藩が主催していた八幡宮祭典を明治以降に各町が引き継ぐにあたり、パイプ役になったという)。現在は町内全体で担っている山車作りも、もともとは火消し組が技芸を競って行っていた。有事の火消しの腕前を、人々は祭りにおける結束振りと華麗ながら安定感のある山車の出来映えによって推し量っていたのである。
 山車の演題に火消し衆の晴れ姿が採り上げられるのも、上記のようないきさつを鑑みれば充分に理解できる。と同時に、火消しを飾り人形に仕立てて粋を競うのは、盛岡地方の風流山車が独自に持っている特色でもある。大屋根を踏み据え組印を冠した大きな纏(まとい)を高々と掲げる半纏(はんてん)鉢巻き姿の火消しの山車には、武者にも歌舞伎にも見られない独特の華やぎと勇みがある。

 纏取りは、町火消しの最も重要な役割であり、花形である。江戸期の消火法は現代とは全く異なり、基本的に鳶口(とびぐち)という鉄で出来た鎌状の道具を使って家を壊す作業が主体であった。燃えている家はどうしようもないので、燃えている家の火が燃え移らないように周りの家を壊し、焼損範囲を出来るだけ狭く抑えるのである。この際火消し衆は、自分の組の纏が立っている地点より内側(火に近い側)にある家を、壊す対象にした。もし纏取りが臆病で、火を恐れて少しでも火から離れれば、それだけ多く家が壊されてしまう。纏取りは我が身を極限まで鍛え、熱さや恐怖に耐えて纏を出来るだけ火に近い位置に保つ必要があった。山車に上がる纏取りはまさに、自らの限界に挑んで庶民の家財を守っている英雄の姿なのである。

 盛岡山車最多出場の纏取りは「日本銀次(にほん ぎんじ)」といって、時の将軍から手づからの盃を受け「日本」の称号を与えられたと伝わる、まさしく天下一の纏取りである。銀次は正式にはよ組の纏取りといわれるが、山車組ではほとんどの場合自分の組の纏取りとして表現し、半纏も自分の組のものを着せる。すなわち、引き子と人形の装束が全く同じになるのである(あるいはより粋な柄の半纏で、組の心意気を示したりもする)。銀次は纏を両手で支え、足下には「悪人」を踏み据えている。踏まれている潰し人形にどんな意味があるのか、特に近年は表に示されることが極めて少なくなった。戦前に代官や悪侍と対峙する日本銀次が描かれたことなども考え合わせると、大名火消しと町火消しが消し口を争っている場面を表したものとも思われる。

紫波町日詰上組平成18年

 潰しが付くのは専ら盛岡市内の日本銀次で、周辺地域では潰しは省き、高屋根の瓦を踏み据える一体仕立てにすることが多い。特に石鳥谷の一体銀次には秀作が多かった。日詰では、盛岡よ組の日本銀次を潰し無しで借り上げ、上がった足の踏みどころとして竹梯子を立てたことがある。

『新門の辰五郎』葛巻町新町組平成23年

 銀次以外にも火消しの山車は作られている。特に一戸では日本銀次の名で火消しが盆に上がる例が皆無に近く、野田組は『野狐三次(のぎつね さんじ)』、本組は『新門の辰五郎(しんもんの たつごろう)』を纏取りの題とする慣例がある。これらは、戦前期には盛岡市内の山車組も試みた演題であり、特に辰五郎については『め組の辰五郎』として高屋根に梯子を掛け、その頂で鳶口を構えるような粋な姿が山車になったらしい。上町組は夫婦で高屋根に上がる『纏一代(まといいちだい)』を工夫している。いずれも人形を高屋根に上げるダイナミズムと、纏の持つ独特の存在感が魅力である。西法寺組については、初自作の際に屋根の付かない『江戸の華 町火消し』を製作した。石鳥谷の上和町組は『三部勇み肌』を初の大人形山車として運行、西組では表裏を火消し・消防に仕立てた山車を出したことがある。

は組の源氏車の纏をかざす『野狐三次』(戦前の絵紙:もりおか歴史文化館提供)

 当該組の半纏・纏を担いだ火消しの山車は、いざ貸し出すとなると扱いが難しい。半纏の組印を隠すことはまず無いが、纏の組印はいくら何でも変えないと不自然である。日詰では、盛岡紺屋町の「田の字纏」に上から紙を貼って「上組」と書いた。沼宮内でも同じように、纏の頭だけ付け替えて日本銀次を出した形跡がある。こういった事情があるために、そもそも火消しの山車は貸し出しに回されることが極めて少ない。

 見返しに火消しの趣向を凝らす例もある。纏取りは『橋中火消し』『野ぎつね三次』などと題が付いて、一戸橋中組の見返しに上がった。纏を手動で上下させる工夫が試みられたこともある。盛岡では『南部火消し』として梯子に登って鳶口を構えた火消し、纏を傍らに置いた若衆などを飾っている。滝沢山車祭りでは、女性のマネキンに半纏を着せた『火消し小町』がたびたび登場する。

『南部梯子乗り』盛岡市二番組平成9年

 火消しの見返しで最も花があり変化に富んでいるのは、『南部梯子乗り(なんぶ はしごのり)』である。これは出初め式で火消し衆が披露する曲芸の山車であり、立てた梯子の上で体を手のひらと膝だけで支え「義経の八艘とび」「尾張名古屋の金のシャチ」など様々な体勢を取る有り様が表現されている。ちなみに実際の梯子乗りは盛岡では正月に、木遣りなどと共に肴町アーケードで披露される恒例がある。梯子乗りの見返しは現状では盛岡市内に限って飾られているが、いずれ全県的に見られるようになるのだろうか。

 火消し山車の最大物は、盛岡二番組の『南部重直公(なんぶ しげなおこう)』であろう。これは大名火消し姿の盛岡藩主を飾ったこの組独自の演題で、江戸の大火の際に謹慎を破って消火に尽力し、天下に名を馳せた人物と伝えられている。「盛岡城下400年」「盛岡山車300周年」など節目の年に、半纏にも「御雇い鳶」と染め背中に南部双い鶴を掲げた引き子によって運行された。



(他地域)青森ねぶたでは、下にあげたように火事場の火を表現して纏取りと対峙させる。火は単に火にせず、魔神や不動明王など具像として表現する工夫が見られる。青森では南部地方を中心に火消しを多数登場させる演題があって、背景は板状の火を何枚も重ねて飾って圧倒的な迫力にする。火消しの体に入れ墨を表現するのも、現在では青森南部と秋田の一部に見られるのみで、盛岡山車伝承域では試みられなくなった。花巻以南の仙台山車エリアに入ると、以降ほとんど火消しの演し物は無くなる。




文責・写真:山屋 賢一
(資料提供:『野狐三次』絵紙/もりおか歴史文化館・『新門の辰五郎』黒石ねぷた/現地購入写真)

(ホームページ公開写真)

盛岡@ 石鳥谷 盛岡A 南部重直・梯子乗り 新門の辰五郎




『新門の辰五郎』青森県黒石市(購入写真)


山屋賢一 保管資料一覧  
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
日本銀次(潰無) 石鳥谷中組(本項1枚目)
石鳥谷下組
日詰上組
盛岡本組見返し
石鳥谷下組(手拭)
日本銀次(潰有) 日詰上組(本項2枚目)
盛岡よ組
盛岡よ組

盛岡よ組(3体)
沼宮内の組
盛岡わ組
盛岡わ組
盛岡よ組@A(富沢:色刷)

※書籍
盛岡よ組(国広)
※写真
盛岡よ組(富沢)
盛岡よ組(3体)
野狐三次 一戸橋中組見返し
盛岡は組
一戸野田組
※写真
一戸野田組(香代子)
盛岡は組(本項4枚目)
新門の辰五郎
(め組の辰五郎)
一戸町本組・葛巻町新町組(本項3枚目)
※カラー写真
一戸本組
沼宮内大町組見返し

※白黒写真
盛岡玉組
盛岡新馬町餌差小路
一戸町本組

※写真
盛岡新馬町餌差小路
盛岡玉組
一戸本組(富沢)
江戸火消し 大迫上若組 二戸堀野東組
※写真
一戸西法寺組
纏一代 葛巻町茶屋場組(広報記事)
一戸上町組

※写真
一戸上町組(富沢)
南部火消し 南部火消し伝統保存会
盛岡本組
盛岡二番組
はしご乗り 盛岡二番組@(本項5枚目)A
南部火消し伝統保存会
南部重直公 盛岡二番組@A 盛岡二番組@A(ともに正雄)
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

天下御免(てんか ごめん)で 日本と名乗る 火消し銀次の 身の誉れ
江戸で名高い よ組の纏
(まとい) 振って銀次の 晴れ姿
勇みの銀次 わ組のかがみ 不動の纏 五番組
見るも勇まし 日本銀次
(にっぽんぎんじ) 火消しの亀鑑(かがみ)と 傳(つた)わるる
天下泰平 火消しの銀次 勲
(いさお)輝き 纏振る
(以上 日本銀次)

※野狐三次

音に名高き 文政の大火(たいか) 立てし纏は 腕の先
人の為なら 命も捨てる 火消し三次の 纏持ち
江戸で生まれて お江戸で育ち 野狐三次の 晴れ姿


※纏一代
義勇と任侠(にんきょう) 男の意気地 纏のもとに 命かけ
見るも勇まし ち組の纏 火消し伊之介
(いのすけ) 晴れ姿


※新門辰五郎
東錦(あづま にしき)を 勇みの肌に 義理と情けの 纏持ち
意地と情けに 達
(だて)引く者は 神明(しんめい)育ちの 辰五郎
一番纏 火の粉を払う 其の名も響く 辰五郎
火事と喧嘩
(けんか)は 江戸の花 命を守る 町火消し
火花散らした 名うての喧嘩 神の恵みに 仲直り
仁義に厚く あるじを慕う 命を懸けた 馬印


※南部梯子乗り
霊峰(れいほう)岩手の 見守る中に 梯子妙技(はしご みょうぎ)の 花が咲く

※南部重直公
盛岡城下の 火防せ(ひぶせ)を願う 二十八代 重直(しげなお)
江戸城火急
(かきゅう)に 重直公が 南部火消しの 名を残す


※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ




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