青森県弘前市 弘前ねぷた祭り

〜永遠に再生産され続ける、創意豊かな武者絵物語〜

 

盛岡山車と共通演題1【村上義光】
 弘前市のねぷたは通称「火扇」と呼ばれ、扇形の行灯に、勇壮な鏡絵と優美な送り絵を描いたものです。「高覧」と呼ばれる台座部分を折り曲げる仕掛けが有り、狭い街路で4、5メートルのねぶたは、広い通りでは8、10メートルほどに巨大化出来ます。扇の上部も折れ曲がるようになっていて、これらの工夫がもたらすねぷたの「高さ」が、弘前ねぷたの視覚的な醍醐味です。扇の両端の部分には紐がついていて、これを持った曳き手がねぷたの周りを円周上に走り回り、ねぷたを回転させる。運行時の見所です。全体で70台近くにもなる出陣ねぷた、さらに前ねぷたや余興(抜刀術とかなんとか)が加わって、いつ終わるのかわからない、長い長いねぷたの列が続きます。

盛岡山車と共通演題2【里見八犬伝芳流閣の場】
 お囃子は、勇壮というイメージとは程遠いのどかなものですが、「やあやどお」の掛け声がかかると一気に勇ましさを帯びていきます。これがねぷたの「涼と熱」。実に鮮やかで、風流です。

 ねぷたの絵柄は、主に中国の『三国志演義』や『水滸伝』を採り上げたもので、江戸期に津軽藩士が江戸から持ち込んだ絵草紙に由来しています。長い年月を経るうちに、はじめは浮世絵の模写に近い画風であったものが、現在のような勇壮闊達なものになりました。「名作」といわれる構図が年月を経て再攻勢される一方、画題の枠内で常に新たな奇抜な発想を探る動き、また画題そのものを奇抜なところに求めるなど、弘前ねぷたの絵柄は千差万別。定番は三国志の『関羽』、水滸伝の『花和尚』、日本史では『川中島』。度肝を抜かれた演題には『南都焼き討ちの平重衡』『熱病に苦しむ平清盛』など。祭好会、地主ネプタなどが構図をよく工夫していて、毎年楽しみです。灯篭という性質上、熱して液状にした蝋を紙に塗って灯りの通し方を調整する技術が伝わっており、着物の部分などに蝋液の斑点を連続して打ち描くのが、ねぷた特有の画風です。蝋には墨が水に流れるのを防ぐ役割もあり、雨天の運行でも墨絵の部分は殆ど乱れることがありません。表を鏡絵(かがみえ)といい、裏側を送り絵といって、表裏で静と動の風情を表します。送り絵は一般には『唐美人』、鏡絵に関連して水滸伝なら『一丈青』、また『地獄太夫』など、津軽独特の血を好む残酷な絵柄が用いられることもあります。中心となる美人画を扇の中央の長方形のくぼみに描き、「袖」と呼ばれる周囲を、様々な趣向で彩ります。地元の方は、表よりもむしろ送り絵に、ねぷたの華を見るのだとか。

同系統 黒石市のねぶた【畠山重忠】
 「組みねぷた」と称する人形灯篭のねぷたもあり、こちらは主に町内会や素人同好会による作品が多く、青森や黒石ほどの高い技術は見られません。しかし、比較的大きい電球を用いているためか、行灯らしいまばらな明るさがあり、ゆっくりと回転する姿に風情があります。折り曲げ等の工夫でかなりの高さに及ぶ組みねぷたも見られ、人形灯篭ねぷたとしてバランスよく巨大化した、素朴な味を感じました。

 約5時間続くねぷたの行列の最後には、『本日終了』の手持ち灯篭。カケスは各町内に分散していて、帰る道すがら囃す『帰り拍子』は、運行のお囃子より華やかで激しい。合同運行に平行して、個別に町内を回る例もあるらしく、細かな移動の際にも必ず進行囃しが奏されます。青森とは対照的に、観光化されていながらも、引き継がれていることの中にすごく素朴で古風な魅力がありました。



祭好会のねぶたは珍しい構図が多いので必見
(後日談 )

 弘前市は津軽藩の城下町なので、藩政期は港町であった青森市より、むしろ都会でありました。ですから、現在の青森と弘前のねぶたを比べたとき、圧倒的に青森のほうが都会風であるというのは面白いと思います。上記を執筆した平成14年には駅前通の運行を見たのですが、2年後に行ったときは、土手町という昔からの繁華街での合同運行を見ました。少しくすんだ様な土手町の明かりは、ねぶたの明かりをすごく良く包んでいて圧倒的な風情がありました。通ならやはり、土手町で弘前ねぷたを見るのがよいと思います。

 青森のねぶたは企業の出す大型のものが目立っていますが、弘前では本当に各町内から大小こもごもの作品がたくさん出てきます。そういう部分にも、弘前ねぷたの風情があるものだと思います。




文責:山屋 賢一

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