盛岡山車の演題【風流 村上彦四郎義光】
 

村上義光

 



「関所」紫波町日詰一番組平成元年

 錦旗(きんき)・錦の御旗(にしきの みはた)は、そもそもは後鳥羽上皇が承久の乱の時「天皇・国家に逆らう逆賊を討つ正義の軍団(官軍)の証」として自分に従う武士たちに与えたものである。江戸時代の末、薩長討幕軍が鳥羽伏見で幕府軍と対峙した際、この錦の御旗を自軍の先頭に高々と掲げた。それを見た幕府軍は「われわれは朝廷に弓を引く賊軍なのか」と大混乱に陥り、大いに戦意を喪失し大敗したという。
 それほどに錦旗とは日本人にとって、正義と大義の象徴なのである。少し前の日本で錦旗といった場合、この逸話より先に思い出される或る忠臣の話があった。

 時は鎌倉時代の末、やはり倒幕の嵐が日本中を駆け巡っていたころのことである。鎌倉幕府討伐を目指す後醍醐天皇の第二王子 護良親王(もりなが しんのう)は革命(正中・元弘の変)に失敗、命からがら高野山へ落ち延びる最中であった。吉野の関にいたると、関守は親王を見咎めて捕縛しようとする。この時親王は、見逃してもらう代わりに関守に錦旗を差し出した。錦旗は官軍の証、これを譲り渡すことは鎌倉方に理を与え自軍を否定することにつながるのだが、親王はこの点に思いを致すには少々若すぎた。内心やんごとない若君に縄をかけるのを躊躇っていた関守たちも、御旗を得られれば幕府からの叱責へ申し開きが出来ると安心し、かくして親王はなんとか吉野の関を抜けたのである。

「関所」紫波町日詰上組昭和56年

 数刻の後、山伏に身を窶して親王を追ってきた村上義光(むらかみ よしてる)が、吉野の関に差し掛かる。御旗が隠し置かれているのを見て、義光は数刻前にここで何があったのかを即座に悟った。義光は生涯を通じて護良親王に仕えた忠臣である。義光と親王とはこの間一切連絡を取っていないのだが、それでもこのように主の足らざるところを果断に補えるところが忠臣と呼ばれるゆえんであろう。相撲の大関とか関脇の語源は関守で、関所を守る侍衆というのは古くから怪力・豪傑と相場が決まっていた。義光はそんな彼らを「無礼者」と一喝した上で、一瞬の内に蹴倒し投げ飛ばして錦旗を奪い返す。この義光の奮闘により、親王の軍は賊軍に墜ちずに済んだ。

 山車では、山伏姿の髭面の豪傑が関守を打ち据えて旗を奪い取ろうとしている場面を2体で飾る。近年の作は金剛杖を振り上げた構図が主だが、もとは数珠を握った手で殴る構図が多く、杖は傍らに転がしていた。平成以降でも、盛岡のめ組が沼宮内で作った義光は皆、この素手殴りの構図である。関守は両手で必死に旗にしがみつく姿、仰向けになり2本の腕で錦旗を引っ張る姿が基本だが、刀を抜いていたりうつ伏せになったり、義光の懐へダイナミックに引き込まれているような奇抜な演出もある。蹴倒される関守は武装していて義光は武装していないのだが、これも義光の豪傑振りを窺わせる対比であろう。錦旗はさすがに「錦」というだけあって豪華な綾錦をふんだんに使って仕上げ、山車の見所となる。出来るだけ旗全体を美しく見せようと配置に工夫し、旗の上部を高く上げる例などが見られる。義光の山伏装束は勧進帳の弁慶とは違い、より史実に近く、より華やかである。

「身代わり」盛岡市中野と組昭和62年

 盛岡の東組(現在の中野十三分団と組)昭和30年代の山車は、やはり村上義光であるが山伏姿ではない。鎧を着て高台に上がり、台の下には鎧武者が伏せている。これは義光の最期を描く山車である。
 吉野の砦で護良親王の鎧兜一切を賜った義光は身代わりとなって高台に上がり、敵兵すべてに名乗りを上げる。「われは親王であるぞ。尋常に勝負せよ。」たちまち敵の集中砲火にさらされた義光は、親王を身代わったまま敵前にて割腹する。義光の捨て身の盾に護られて生き延びた親王は、その志を継いで革命を成し遂げ、建武政権下で征夷大将軍に任じられた。
 戦前の一戸では、特に切腹の場を意識して鎧をはだけた白装束の義光が出たことがあった。戦後は西法寺組が2回出しており、2度目は村上義光ではなく『本能寺の変』と改題されている。この劇的なエピソードも戦後にいたり、忘れられてしまったのだろうか。義光の逸話は室町時代の軍記「太平記」に依拠したもので、戦前の国史教育を通じて大衆に普及したものといわれて久しい。しかしながら、このような主題の取り違えが昭和晩期に既に起こっているのである。高覧の下に鎧武者を配すなど手法の面白さにこの演題の魅力があるとすれば、戦前の教育のみを村上義光山車化の要因と考えることについて、一抹の疑問を禁じえない。

 他地域でも村上義光をはじめ、太平記を主題とした演し物は廃絶寸前の状況である。盛岡山車圏内では平成8年が最後、その後の周辺地域を眺めてみると、秋田の土崎で1件、人形山車の枠を超えて青森の扇ねぶたに数例見られただけである。ねぶた絵では関守を投げ飛ばす姿で描いたものがある。
 かつて盛岡人は義光を「志士」と謡った。希少な演題を十分な情報量のもとで伝承していくことが、今後の課題である。



文責・写真:山屋 賢一



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本項掲載:日詰一番組H元・日詰上組S56・盛岡と組S62



(音頭)

皇子(みこ)の御盾(みたて)と 散りにし人を 花にたぐえて 後の世に
花の吉野路 身を山伏に 錦旗
(きんき)(も)り抜く 武の威力(ちから)
君が首途(かどで)に 受難の御旗(みはた) 奪い返せる 志士の意気
親王護る 義光が 最期を飾る 吉野山
武勇義光 関守蹴って 錦
(にしき)の御旗を 取り戻す
破邪
(はじゃ)のつるぎの 風斬るところ 敵は雲居を 散らすかに



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