村上義光
時は鎌倉時代末期、倒幕の嵐が日本中を駆け巡っていたころのことである。後醍醐天皇の第二王子護良親王(もりなが しんのう)は革命(正中・元弘の変)に失敗し、命からがら落ち延びる最中であった。吉野の関にいたると、関守は親王を見咎めて捕縛しようとする。親王は己が命を守るため、断腸の思いで、関守に錦旗を差し出した。錦旗は官軍の証であり、これを譲り渡すことは鎌倉方に理を与えることにつながる。親王としてはやむにやまれぬ、苦渋の決断であった。関守たちも、内心やんごとない若君たちに縄をかけるのを躊躇っていたところで、御旗を得られれば、幕府から叱責されても申し開きが出来ると安心した。かくして親王は、なんとか吉野の関を抜けたのである。 数刻の後、山伏に変装して親王を追ってきた村上義光(むらかみ よしてる)が、吉野の関に差し掛かる。御旗が隠し置かれているのを見て、義光は数刻前にここで何があったのかを即座に悟った。「無礼者」と一喝する義光、たちまち群がる関守を蹴倒して錦旗を奪い返す。義光は生涯を通じて護良親王に仕えた忠臣である。この間、義光と親王とは一切連絡を取っていないのだが、それでもこのように主の足らざるところを果断に補って見せるところが、忠臣と呼ばれるゆえんであった。 山車では、山伏姿の髭面の豪傑が関守を金剛杖で打ち据えて旗を奪い取ろうとしている場面を、2体で飾る。古い絵紙には杖ではなく素手で殴る構図も見受けられ、鉈屋町め組が沼宮内に山車を作りに行ったときなど必ずこの構図を使った。関守は両手で必死に旗にしがみついて離れようとしない。必ず2本の腕で錦旗を引っ張る姿に描かれる。蹴倒される関守は武装していて、義光は武装していない。義光の豪傑振りを窺わせる対比である。錦旗はさすがに「錦」というだけあって作品の見所であり、豪華な綾錦をふんだんに使って仕上げる。義光の山伏装束も勧進帳の弁慶とは違い、より史実に近く、より華やかである。 盛岡の東組(現在の中野十三分団と組)昭和30年代の山車は、やはり村上義光であるが山伏姿ではない。鎧を着て高台に上がり、台の下には鎧武者が伏せている。これは義光の最期の姿を描く演し物である。 吉野の砦で護良親王の鎧兜一切を賜った義光は、身代わりとなって高台に上がり、敵兵すべてに名乗りを上げる。「われは親王であるぞ。尋常に勝負せよ。」たちまち敵の集中砲火にさらされた義光は、親王を身代わったまま敵前にて切腹する。義光の捨て身の盾に護られて生き延びた親王は、後に建武政権下で征夷大将軍に任じられた。 一戸町では西法寺組が2度製作しており、2度目の製作では村上義光ではなく『本能寺の変』と改題されている。この劇的なエピソードも戦後にいたり、庶民から忘れられてしまったのであろうか。義光の逸話は室町時代の軍記「太平記」に依拠したもので、戦前の国史教育を通じて大衆に普及したものといわれて久しい。しかしながら、このような主題の取り違えが昭和晩期に既に起こっている。高覧の下に鎧武者を配すなど手法の面白さにこの演題の魅力があるとすれば、戦前の教育のみを村上義光山車化の要因と考えることについて、一抹の疑問を禁じえない。 他地域でも村上義光をはじめ、太平記を主題とした演し物は廃絶寸前の状況である。盛岡山車圏内では平成8年が最後、その後の周辺地域を眺めてみると、秋田の土崎で1件、人形山車の枠を超えて青森の扇ねぶたに数例見られただけである。希少な演題の伝承が、今後の課題である。



文責・写真:山屋 賢一
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