盛岡山車の演題【風流 義経弓流し】
 

義経弓流し(屋島の戦い)

 



盛岡市鉈屋町め組平成18年

 「ユミナガシ」という心地よい響きもこの演題の魅力である。
 源平屋島の合戦、通常三日はかかる戦場への航路を源義経は嵐をついてわずか4時間で踏破、平家一門が都から同道している安徳天皇の御所を襲った。天皇と三種の神器を奪われれば平家はたちまち賊軍となる。天皇の御所はまさに平家の心臓であり、いかに平家武者が勇猛でも心臓を狙われれば逃げるしかない。かくして義経の神懸りの奇襲戦術が功を奏し、平家はまたもや「負けるはずのない戦」に敗れてしまった。
 義経さえいなければ…と茫然自失の平家軍に、ふいに義経を討ち取る好機が訪れる というのがこの弓流しの物語である。
 義経は海に落とした自分の弓が波にさらわれていくのを追いかけ、夢中で敵兵ひしめく沖へと駆け出していく。これは千載一遇の好機、平家方はいっせいに攻撃を仕掛けた。家来の尽力からがら義経は何とか弓を拾い上げて陣屋に引き返したが、危険な真似をするなと家来たちに散々にたしなめられた。義経がこれら諫言に返した言い訳が素晴らしいのである。
「かの鎮西八郎為朝公のような張りの強い弓なら流しもしたろうが、このような張りの弱い弓をもし敵方が見て、源氏の大将義経のものと知れたなら、私のみならず源氏一門末代までの武門の恥となるではないか。武士というものは命よりも名誉を惜しむものだ。」と。家来たちはすっかり納得して、義経という大将は本当にすごい大将だとますます士気をあげた。
 那須与一の扇の的に、弓を流した義経の生還。屋島で起きた2つの奇跡は動かしようのない源氏の幸運を両軍に感じさせつつ、決戦はいよいよ壇ノ浦へと展開していく。

 義経の伝説を採り上げた山車は、盛岡周辺に限らず全国に見られる。しかしながら、この弓流しの物語を人形飾りに凝らした例を、私は盛岡山車以外に見出せていない。盛岡山車の範疇といっても決して定番ではなく、盛岡のめ組のみが出す演し物である。片手に刀を振りかざし、もう一方の手を下方に伸ばして弓を拾おうとする変化に富んだ構図の騎馬武者で、義経が大きく前傾姿勢になる事で独特の躍動感が生まれる。足元の海原にはすらりと伸びる弓の快い存在感、松の枝からはテグスでたくさん矢を吊って激しい戦の雰囲気を再現する。馬の背後に小さな船が飾られているが、これは義経を捕まえようと迫る平家の兵団を暗に示している。
 盛岡め組は昭和40年代の末に案出、沼宮内や石鳥谷の発注先・貸出先で何度か形にしたが、この他の組が今に至っても1件も採っていないのは惜しい。二戸の古い写真には、熊手で義経を捕まえようとする平家の雑兵を添えて弓流しの山車を作ったらしい形跡が残る。『義経屋島の戦』の題で出されたこともある。

【盛岡山車】※盛岡市鉈屋町め組(消防第二分団)平成2年『風流 義経弓流し』



(他地域の状況)

 八戸三社大祭には、見返しに船上で弓を落とす義経を飾って『義経の弓流し』と題を付けた山車があった。他はねぶたや秋田・山形の山車、北陸や九州の人形飾りなどを探ってみても、弓流しにほとんどお目にかかれない。




文責・写真:山屋 賢一

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盛岡山車『義経弓流し』 沼宮内ろ組@
沼宮内ろ組A
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(音頭)

流るる弓に 命をかけし 今に屋島の ものがたり
(うしお)のはこぶ ゆかりの弓を 掬い(すくい)構えて 敵を討つ
汐に漂う 弓一張
(ゆみ ひとはり)に 九郎義経 名を惜しむ






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