盛岡山車の演題【為朝の山車】
 

為朝の山車

 



 浴衣一枚という簡素な衣装で木目込みの躍動的な骨組みを全面に出す「裸人形」は、盛岡の山車職人たちが最も得意とした山車人形であり、南部流風流山車ならではのものであった。裸人形が好まれたからこそ山車とされえた英雄もいる。
 保元の乱(ほうげんのらん)で武運つたなく敗れた源氏随一の弓矢の名手、源為朝(みなもとの ためとも)がその典型である。数ある演題の中で、苗字もなくただ『風流 為朝公』と題され得るのはこの人物を置いて他にない。往時の盛作振りは現在ほとんど影を潜めてしまったが、裸人形の最盛期、これほど多く盆板に上がった人物はいなかった。
 特徴的なのは、武人である為朝がほとんど鎧を着て登場せず、通常の衣装が浴衣とされている点である。他の地域の為朝の山車がほぼ例外なく鎧武者であるのに対し、盛岡周辺では『湯上り為朝(ゆあがり ためとも)』といって、その描くところに思いをいたす以前に「為朝といえば浴衣に乱れ髪」と相場を決めている。
 為朝の山車の主な製作例を3つを提示したい。



●風流 島の為朝(為朝大蛇退治)

「為朝と山犬」沼宮内大町組平成10年

 滝沢馬琴の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」による、青年期の為朝の伝説である。藤原信西(ふじわらのしんぜい)と対立した為朝は、北九州の偏狭筑紫(つくし)で生活をはじめる。山中で暮らす間、2匹の山狗(やまいぬ:狼)が為朝になついて番犬のように狩りの供をするようになった。
 ある日、そのうちの一匹が何かに憑かれたようにしきりに為朝に吠え立てる。始めは笑っていた為朝も「やはり野獣は人になつかぬものだ」と怒り、山狗の首を切り落としてしまった。すると切られた山狗の首が宙に舞い上がり、茂みの影から為朝を狙っていた大蛇の首に噛み付いた。喉笛を噛み切られた大蛇は絶命し、為朝は九死に一生を得たのである。
 「自分を守るために吠えていた山狗の気持ちをわかってやれなかった」
 為朝は浅はかな自分を悔やみ、山狗のなきがらを丁重に葬る。血も涙もない人の有り様を「虎狼のようだ」というが、狼にはこれほどまでに熱い忠義の心があり、それを感じられなかった人間の自分こそ虎狼であると、為朝は嘆くのである。

 為朝の大蛇退治は南部流風流山車に登場する演題のうちでももっともグロテスクなものの一つで、為朝が切り殺した山狗の首なし胴体と、松の上から為朝を狙う大蛇が首筋を山狗の首に噛まれている人形、そして太刀を抜き弓矢を背負う胴鎧の為朝という3体飾りである。小説自体が、こういったおどろおどろしい珍獣の跳梁する様を魅力とするものであり、「風流 椿説弓張月」と呼んで差し支えないだろう。
 戦前に盛岡の青物町、戦後は仙北町・一戸の上町組、岩手町では沼宮内の大町組が平成10年に作った。或る種の見世物小屋のような雰囲気で楽しみたい。

(音頭)

鎮西八郎(ちんぜいはちろう) 筑紫の果てに 今も高鳴る 弓の弦(つる)
犬の一念 火を吐く島に 光る幾代の 語り草


※平成23年の一戸まつりには、上記とは全く別の為朝大蛇退治のエピソードを取り上げた山車が出て、二戸・浄法寺・葛巻でも運行された。(詳細





●風流 為朝公(湯上り為朝)

『湯上り為朝』絵紙(大正期盛岡):もりおか歴史文化館提供

 保元の乱に敗れ落ち武者となった為朝は、身を寄せた先で裏切りに遭い、温泉で療養しているところを追っ手に取り囲まれる。為朝は湯殿の柱一本を引き抜き、頭上にかざして追っ手を蹴散らした。この様子を記述しているものに「保元物語」や前述の弓張月があり、細部にわたって南部流風流山車の『為朝公(ためともこう)』の意匠に適合する。
 昭和26年はサンフランシスコ平和条約調印の年で、日本の解放独立を象徴する「為朝の牢やぶり」としてこの作品が作られた。湯屋破りが牢破りに錯誤されているのである。これは当時の認識としても、頭上に柱をかざす為朝の姿が一体何を表すか分かる人がわずかであったことを示しているのだろうか。とは言いつつも、浴衣姿で追っ手を蹴散らす場面は戦前戦後を通して盛岡山車定番の為朝の姿であり、それこそ説明も何もなしに『為朝公』として納得されうるものであった。
 一体であれば湯屋の柱を両手で持ち上げる姿が定形であるが、潰し人形(鎧武者)を付ける場合は刀を振り上げた為朝・桶を高く掲げた為朝など工夫が加わることもある。為朝のほうが貧相な姿だが、勇みに満ちた組み付けをする。


(音頭)

義勇兼備(そなえ)し 為朝公の 誉れは遠く 今の世に
出るや為朝 囚屋
(ひとや)をやぶり 仰ぐ講和の 日の光
憤怒る
(いかる)為朝 髪逆立てて 睨む武勇の 気の配り
囚屋の柱 おがらの如く 砕く為朝 弓の神





●風流 島の為朝(弓打ち)

「1体の弓打ち」石鳥谷町下組平成3年

 源氏の武者でもっとも強いといわれた弓矢の名手源為朝は保元の乱に敗れ、腕の筋肉を切られて島流しになった。にもかかわらずその強弓(ごうきゅう)は衰えず、為朝を討とうと遠く海峡をやってきた平家の軍船を射て、たった一本の矢で沈めたという。
 平成に入ってからは、この逸話を元に華やかな装束を纏った為朝が弓を射る様子を1体で飾った山車がでた(石鳥谷町下組:写真)。この趣向はもともと浴衣を一枚だけ着せた構図であり、伝承域一帯で一時期大流行したものである。正式には為朝のほかに従者一人がついて(八丁礫の喜平治とも)、「お見事」と日の丸扇子を掲げる2体飾りとなる。

「2体の弓打ち」一戸町上町組平成26年

 為朝の衣装はいたって質素であり、源氏の紋所笹竜胆(ささりんどう)を紺に染めた真っ白い浴衣を纏っているだけというのが典型であった(絵紙の上では上半身ほぼ裸に近い)。流人なのだから、この格好のほうが適切なのだろう。一応御曹司扱いされる為朝なので青年の髪型で月代は剃らないことになっているが、この定型すら崩し、ザンバラ髪に無地の浴衣を纏って弓を持っている人形をさえ、『島の為朝』として祭り場に繰り出した。とにかく衣装よりも、いかに動きがついて格好良く組まれているかを見所としたのである。
 昭和58年、平成3年…と時代が下るごとに、袴が豪華になったり胴丸をつけたりと、豪華さが加わるようになっていった。平成に入ってからは従者とともに鎧姿、船上で弓を構える為朝が山車に出ており(一戸町)、断絶がなければさらに豪華な演出が凝らされていったのかもしれない。一方で、志和八幡宮祭典(紫波郡紫波町)では平成に入って以降も、浴衣一枚に無精髭、流人の荒々しく勇ましい姿を凝らした為朝の山車が出た。

 弓の出てくる為朝の山車にはこのほかに、鬼も引けない為朝の強弓(仮題)というのがある。為朝の弓はあまりに張りが強くて、力自慢の妖怪「天邪鬼(あまのじゃく)」でさえ容易に引くことが出来なかった。子鬼2匹が奮闘する様を見て、為朝は苦笑している。
 青森県八戸市の博物館に、藩政期に豪商が江戸から買い入れた山車人形としてこの場面を作ったものが展示されている。非常に立派で、面白味のある人形である。盛岡でも戦前に一度出た形跡がある。


(音頭)

島の為朝 勇者の誉れ 勇め武の国 神の国
弓矢の家に 生まれし人が 名をぞとどむる はなれ島
一箭
(ひとや)見事に 船をば沈め 剛弓無双と 世に称う
弓の勢い
(きおい)ぞ 為朝が 今に讃える 弦の音
弓は滋藤
(しげとう) 為朝しぼり 寄せ手に放す 伊豆の島
怒る為朝 髪逆立てて 弓の勢いぞ 弦の音
島の為朝 勇者の誉れ 弓の一矢
(いちや)で 船沈め

光る源氏の 威徳を今に 飾りて曳き出す 勇み肌



 まさに為朝は、裸人形最盛期に愛され裸人形の衰微とともに忘れられていった演題といえるだろう。人形の作風そのものが、一人の英雄を山車に上がる定番のスターとなしえたのであり、山車製作の技術論としても非常に面白い素材である。
 為朝の見返しとして、一戸祭りでは『舜天王(しゅんてんおう)』を飾ったが、これは為朝の末裔が琉球王国に渡って王族となったとの伝説によるものである。


八戸市立博物館展示山車人形

【他地域の為朝の山車】
@千葉県佐原市の常置人形には為朝の人形があり、平安朝の大鎧を纏い弓を持って立っている。
A山形県新庄市では『椿説弓張月』という題名の山車が出たが、これは荒れる海を鰐鮫という怪獣が暴れまわる趣向のもので、船の舳先には弓を持ち、豪華な大鎧を纏った為朝がいた。
B青森県八戸市では『椿説弓張月』という題名の山車が近年たびたび出ているが、これは主に沖縄習俗を衣装や神獣などを上手に使いエキゾチックに表現したもので、為朝の陰は薄い。転じて沖縄ものの山車の背面に為朝を飾って関連させる定例が出来つつある。



(ホームページ公開写真)

一戸本組 志和 大湊ねぶた




山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
大蛇退治 沼宮内大町組(本項1枚目)

青森県八戸市
盛岡青物町
一戸上町組
盛岡仙北駒形会・日詰橋本組
盛岡仙北駒形会

集合番附
盛岡二番組
黒髪山 一戸上町組 一戸上町組(富沢)
湯上がり 盛岡三番組
盛岡一番組
盛岡新穀町
盛岡青物町
盛岡仙組
沼宮内新町組
盛岡三番組(本項2枚目:もりおか歴史文化館より)
盛岡青物町
沼宮内新町組
弓うち 一戸町本組
志和町山車
一戸上町組(本項4枚目)

青森県八戸市
青森県むつ市大湊
盛岡米内組
盛岡二番組
志和町山車(白浴衣)
志和町山車(甲冑)
盛岡み組
盛岡と組
盛岡は組・沼宮内新町組
石鳥谷下組(本項3枚目)
一戸本組
志和町山車
一戸上町組(富沢)

盛岡二番組
一戸本組
盛岡と組(国広)
一戸西法寺組(国広)
志和町山車
盛岡は組(富沢)
鬼と為朝 八戸市立博物館所蔵山車人形(本項4枚目) 盛岡か組 盛岡か組
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文責・写真:山屋 賢一
(資料協力:もりおか歴史文化館)


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