盛岡山車の演題【風流 義経八艘飛び】
 

義経八艘飛び

 



「義経を松の上まで」沼宮内の組平成14年

 源平最後にして最大の戦い「壇ノ浦(だんのうら)の合戦」、本来この戦は海戦であるので、水軍を持たない陸軍主体の源氏が、船戦を得意とする海軍主体の平家に勝てるはずがなかった。源氏の大将九郎判官義経(くろうほうがん よしつね)はこの逆境を跳ね返すべく、当時は非戦闘員と見做されていた敵船の漕ぎ手を次々に射殺した。この奇策で戦況は一変し、平家軍はまさかのまさかで怯み始めるのである。平家の猛将能登守教経(のとのかみ のりつね)は、幾多の合戦で平家方を破ってきたにっくき義経を今度こそはなんとしても仕留めようと、烈火の如く船端を駆け回った。義経はこの怒涛の追跡を軽やかな身のこなしで切り抜けながら、なんと重い鎧兜を着けて八艘の船の間を次々に飛び回ったという。教経の執念ついに及ばず、八艘飛び(はっそうとび)のさなかに潮の流れすら義経に味方して、源氏は大勝利を収めた。それは、源義経がその生涯で最も輝いたひと時であった。

「教経を小ぶりに」岩手郡葛巻町新町組平成14年

 いわば「船と波と義経の山車」である。煌びやかな甲冑姿の義経は長柄の薙刀を小脇に抱えているのが定型だが、弓を手にしていたり、刀を振り上げて敵船に飛び掛るような格好に作ったものもあった。盛岡市内では髭を生やした義経が多く、一戸や沼宮内など周辺域では、おおむね髭の無い若々しい風貌の義経としている。
 大別すると、追いかける能登守教経を添えた2体の八艘飛びと、義経1体に大道具の船を付けただけの単体八艘飛びがある。2体八艘飛びの能登守は兜を脱いで長髪を振り乱した姿であり、器用な山車組は義経人形を大きく前方に出して遠近の温度差をつける。義経の人形をわざと小振りに作って距離を開けた山車もあった。昔は遠近ではなく高低で温度差を付けたようで、義経をあくまで不規則な位置に据えて一見アンバランスな外観とし、それを絶妙な目線配置で後方の人形とつなぎ全体を調和させた。いずれ、両者の距離感をいかに取るかが2体八艘飛びの重点といえそうだ。
 追う者が明確に教経であるのが「め組流(※後述)八艘飛び」の特徴で、その他の組では単に雑兵であったり、弁慶を思わせる鉢巻姿の人物であったりもする。義経人形の心棒を竹にするのもめ組の伝統的な工夫で、山車が動くのにあわせて人形が大きく揺れる。つまり義経が跳んでいるように見える。この工夫は、見返しを飾る牛若丸にもよく応用された。
 一体八艘飛びの場合は、義経人形を山車の真ん中に据えることが出来る。義経の跳ぶ姿勢などに2体もの以上に注目が集まるわけだが、沼宮内のの組は松の稜線ギリギリまで義経を跳ね上げ、躍動的な八艘飛びを構想した。背景全体に横波と同じ絵柄を並べて海原を表現する手法は一戸の橋中組などでたびたび工夫されてきたが、川口の下町山道組では波の描き方を特に工夫して、非常に迫力ある山車に仕上げている。

「義経・教経」盛岡市鉈屋町め組昭和61年

「義経を小ぶりに」盛岡観光コンベンション協会平成23年

 義経の一代記がかなり詳細に取材されているのも、盛岡山車演題傾向の特色である。順を追って見てみると、常磐御前(ときわごぜん)、天狗と牛若丸(鞍馬山)、五条の橋、鬼一法眼(菊畑)、鵯越(義経一の谷)、梶原景時との逆櫓を巡る激論、弓流し(屋島の戦い)、八艘飛び、吉野山の義経、高舘の義経…とバラエティーに富み、さらに義経が脇として登場する勧進帳弁慶立ち往生などもある。歌舞伎山車定番の碁盤忠信も義経ものである。
 これは一見、義経を郷土のヒーローとして捉える岩手県人の嗜好を反映したものと思われがちだが、義経と奥州を結びつけるようなエピソードは義経を主役に据えた演題としては皆無に近く、必ずしも地元史として義経伝説が捉えられているのではないことがわかる。東北人にはもともと義経に対して非常に強い思い入れがあるものといわれて久しいが、この思い入れはいったいどういうところからくるものなのだろうか。
 盛岡鉈屋町のめ組(消防二分団)が鎧ものの一要素として義経ものを集中的に作った時期があり、このときの作法が貸し出しや委託製作を通して各地に広まり、おのおの工夫を加えながら変化・発展して、盛岡山車の「義経もの」の型というべきものが出来た。義経ものはよく知られた逸話が多いため観客の理解を得やすく、風流山車のレパートリー拡充に大いに貢献した。義経ものは盛岡山車における武者を作る素地、大道具に凝る素地など、その作法の代表的な側面にうまく対応し、確立されていった一分野といえるだろう。

「赤鎧の義経」一戸町上町組平成22年

 見返しには『牛若丸』『静御前』など義経もの全般に共通する趣向が好まれるが、一戸町の本組では安徳天皇が女官に抱かれて入水する姿を飾った。一見すると祭典の祝い山車には不向きな場面に映ってしまうが、この戦で幼帝を入水させ三種の神器を完全に奪い返せなかったことが、後の義経の身の破滅を招く。そう思ってこの山車を眺めると、表の華々しい高揚感が見返しに至って冷や水を浴びせられたように急にさめてしまう。これはなんとも恐ろしい趣向で、八艘飛びの見返しとしては際立った存在感を放っているように思う。
 ほかに、歌舞伎の勧進帳が見返しになったこともあるようだが、どういう構図かはわからない。

 弁慶義経2人形の山車を『壇ノ浦の戦』として盛岡の青山組・荒屋新町の一番組・沼宮内のろ組が出したが、これも八艘飛びに通ずる演題である。





青森県五戸町

(他地域の作品)
 義経八艘飛びは東北地方の人形山車に共通して見られる演題のひとつであり、岩手県内では平三山車(二戸市など)、花巻山車、陸前高田の式年祭に出たこともある。平三山車の八艘飛びは義経の人形を場面の下半分に置く定例があり、これは戦前の盛岡山車に見られた作法と共通していて実に興味深い。花巻の八艘飛びには電動で義経を上下させるなどユニークな工夫が見られた。隣県では青森県の八戸山車・人形ねぶた・扇ねぶたにおける好題として、秋田県では武者ものを多く製作する秋田市土崎、宮城県登米町、山形県新庄市などで製作されている。波の表現に各流派とも工夫を凝らしており、例えば八戸山車では御座船に鳳凰や竜の船首を表現したり、背景をすべて波にしてしまうなど他には無い大胆な構想が見られた。新庄山車の八艘飛びは、必ず安徳天皇を傍らに伴う。地域各々に見所がある。



文責・写真:山屋 賢一

(ページ内公開)

一戸西法寺組   沼宮内ろ組   川口下町山道組   一戸野田組  

野田村   陸前高田市   青森県八戸市  

本項掲載:沼宮内の組H14・葛巻新町組H14(一戸本組借上)・盛岡め組S61・盛岡観光協会H23・一戸上町組H22・青森県五戸町

山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
日詰下組
沼宮内の組(本項1枚目)
川口井組
一戸西法寺組
一戸上町組(本項5枚目)
川口下町山道組
盛岡よ組
一戸上町組
一戸本組
沼宮内の組
川口下町山道組
一戸西法寺組
一戸上町組(香代子)
川口下町山道組(香代子:色刷)
川口下町山道組(色刷)

一戸本組(富沢)

盛岡よ組
沼宮内新町組(国広)
盛岡め組@(本項3枚目)AB
川口井組@A
一戸本組・葛巻新町組(本項2枚目)
沼宮内ろ組
盛岡観光協会(本項4枚目)
一戸野田組
沼宮内ろ組

盛岡め組
盛岡建設業組合
一戸橋中組
日詰一番組・沼宮内ろ組
石鳥谷上若連
盛岡め組@・一戸西法寺組(国広)
盛岡め組A(国広:色刷)
川口井組・一戸本組(香代子)
盛岡観光協会(圭:色刷)
一戸野田組

富沢押絵番付
義経壇ノ浦の戦 盛岡青山組
沼宮内ろ組
盛岡青山組(香代子:色刷)
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

九郎(くろう)義経 八艘飛び(はっそうとび)の その名も今に 壇ノ浦
壇ノ浦にて 八艘飛びは 今の世までの 語り草
源平合戦 最後の山場
(やまば) 勝利と導く 八艘跳び
治承
(じしょう)の戦 治めて高し 笹竜胆(ささりんどう)の 旗印
興亡
(こうぼう)かける 決戦場は 海鳴り高き 壇ノ浦
(べに)の幟(のぼり)か 波間の白か 渦潮(うずしお)高まる 屋島灘(やしまなだ)
壇ノ浦には 百船千船
(ももふね ちふね) 中の御座船(ござぶね) 目にかける
瀬戸の波風 身も軽やかに 敵をかわせし 船の上
飛燕
(ひえん)の早業(はやわざ) 九郎義経 平家鎮める 壇ノ浦
九郎判官
(くろう ほうがん) 源氏の誇り 歌舞(かぶ)に伝えて 残るいま
波に漂う 軍船めがけ 九郎義経 八艘飛び
運を義経 身軽に飛んで 業
(ごう)を煮やせし 能登守(のとのかみ)
九郎義経 飛燕(ひえん)の如く 業を煮やせし 教経(のりつね)
教経かわして 逆巻く波を 越える義経 離れ業
さきの牛若 いま義経が 跳ぶや八艘 蝶の如
(ごと)
源氏の旗揚げ 黄瀬川(きせがわ)陣屋 鞍馬(くらま)の雨雪 実る今
蝶か燕か 赤間が浦を おどる緋縅
(ひおどし) 大鎧(おおよろい)
時は元暦
(げんりゃく) 弥生(やよい)の月に 雌雄(しゆう)決する 壇ノ浦
清和
(せいわ)源氏の 薫り(かおり)も高く 跳ぶや逆巻く(さかまく) 浪の上

幼き帝(みかど) 夢叶わずと 波間に消ゆる 壇ノ浦 (幼帝安徳入水)


(音頭:壇ノ浦の戦)

潮の流れに 運気を託し 平氏水軍 漂わす
大軍指揮して 平家を倒す 義経武勲の 壇ノ浦
智謀まれなる 義経ここに 平家倒せし 壇ノ浦



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