盛岡山車の演題【風流 弁慶立往生】
 

弁慶立往生

 



石鳥谷中組平成19年

 壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした義経は、後に兄頼朝と仲たがいして追われる身となってしまう。数々の難関をクリアーして奥州平泉に逃げ込み再起を図った義経主従、しかし養父藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)の死で状況は一変。頼朝の奥州征伐を恐れた藤原泰衡(ふじわらの やすひら)軍の討伐を受け、ついに義経は高館(たかだち)に火を放って自害する。
 このとき最後まで主君の元を離れずに奮戦した武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)は、主の自害の暇を稼ぐべく阿修羅の形相で高館の前に立ちはだかった。いくら矢を射られようとも、不動のままに敵軍を睨みすえる弁慶。長い長い睨み合いが続き、攻め手が漸く恐れをかみ殺して弁慶に近づいたとき、はじめて弁慶が立ったまま息絶えているのに気づいた。死を賭して主君を守る姿は「立ち往生(たちおうじょう)」とたたえられ、弁慶の忠義を後世に伝えた。

 盛岡山車の武者演題にはしばしば「絶命の直前」を描くようなものが登場するが、弁慶の立ち往生はあまりにもストレートに死に向かう場面であるため、長らく祝い事の山車には不適とされてきた。が、青森県南や津軽半島などに目を向ければ、凄みのある立ち往生の弁慶は「定番」と称しうるほどに広く創作されている。かえって棒立ち人形に凄みを加えるに当たって、大量の矢玉というのが良く働くようである。

『高館の戦い』川口下町山道組平成18年

 八戸山車の製作助成があった時期の石鳥谷上和町組の山車に立ち往生が出て、まだ幼かった筆者は大変喜んだ。片手に数珠、もう一方に薙刀を杖のように立てて棒立ちの弁慶、体には無数の矢が刺さって血が噴出している。この血は赤い布を矢と一緒に人形に差し込んで表現したもので、顔にも死相が現れ唇の辺りが黒ずんでいる。生々しい表現ではあったが、潰し人形の冴えなど当時の上和町らしい魅力が現れていて、今なお気に入っている一台である。
 石鳥谷では中組、一戸では野田組と上町組、岩手町の川口では下町山道組が、それぞれ1体人形で立ち往生を製作している。弁慶の格好はさまざまで、野田組は大薙刀を真一文字の頭上にささげる姿に作った。何とか単調にしないようにとの工夫が作品それぞれに見られる。同年の奉納となった一戸の上町組と石鳥谷の中組では、大道具のお堂をこだわって立派に作った点が共通していた。欄干を左右に配す事で単調さが緩和され、かえって弁慶をどのくらい大男に、目立つように演出するかが見所となった。
 義経弓流しや四条畷に見られるような松からテグスで矢を吊る工夫はいまだ試みられておらず、もっぱら弁慶に刺さった矢と外れてお堂に刺さった矢で壮絶さを表現している。

 同じ高館の場面を飾った山車で、義経をメインにした作品もある。一戸の本組では奥方が薙刀を手にする姿と組み、岩手町の川口では弁慶が薙刀を振り回す姿と組んで、いずれも鎧兜の義経を主役に据えた華やかな作品としている。




文責・写真:山屋 賢一

(ホームページ公開写真)

石鳥谷上和町組  一戸上町組


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(音頭)

熊野祭りに 引き出す山車は 男弁慶 立ち往生
(たち)の門(かど)にて 主君を守り 敵を睨むか 弁慶の舞
命捧げし 義経守り 無双剛力 武蔵坊
乱れ飛び来る 弓矢を受けて 弁慶無念の 立ち往生
勇武強剛 大薙刀構え 不動弁慶 衣川


(音頭:高館の戦い)

心おだやか 最期の時よ 願うは平穏 平泉
悲運義経 最期の戦 白龍
(はくりゅう)昇りて 伝説へ
眼光鋭く 薙刀かざす 其の名は弁慶 武蔵坊
覚悟の最期 高舘いくさ 主従の絆 火と燃ゆる




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