盛岡山車の演題【風流 和藤内】

和藤内(国性爺合戦)

 



 『和藤内(わとうない)』は、盛岡山車の一番古い歌舞伎演題ではあるまいか。近松門左衛門による戯作「国性爺合戦(こくせんや かっせん)」を題材にとった山車で、「紅流し(べにながし)」という場面が数多く製作されている。

「紅流し・肌色隈」盛岡市愛宕町み組昭和61年


 国姓爺和藤内は父を明国に、母を日本に持つ混血児である。和藤内は蛮族韃靼人(だったんじん:史実の満州族)に侵された父の祖国の再興を目指して中国大陸に渡り、数々の冒険を繰り広げる。

 「紅流し」は、和藤内が中国で暮らす腹違いの姉「錦祥女(きんしょうじょ)」に会いに行く話である。錦祥女の夫「甘輝(かんき)将軍」は韃靼王に仕える武将だが、和藤内は姉の縁で甘輝を韃靼王から切り離し、味方につけようとする。甘輝は「妻の縁で主君を裏切るなんて、男の恥だ」となかなか腹を決めない。和藤内は、母を人質にしていったん城を出て、城から流れ出る川の水を使って錦祥女から合図をもらうことにする。甘輝が味方に付くなら白粉を、裏切らず和藤内を敵に回すなら紅の粉を、城から川へ流すことになった。
 山車に出るのは、獅子ヶ城から流れてきた否の証の真っ赤な流れを見て「南無三、紅が流るるわ」と和藤内が逆上する場面である。実はこの紅の流れは紅粉ではなく、やむにやまれず自害した錦祥女の血潮であった。妻の自害は「妻の縁での裏切り」という甘輝の汚名をそそぎ、なおかつ、甘輝が韃靼王を妻の敵として討つ大義ともなる。かくして錦祥女の尊い犠牲により、和藤内は甘輝を味方に付けることが出来た。


「紅流し・白隈」盛岡市厨川や組平成18年

 蓑を纏った和藤内が石橋に片足をかけ、笠を片手に松明で川面を照らし見ている様子を一体飾りで描く演し物である。顔には顔面紅潮した様子をあらわす二本筋隈を入れ、紫地に縄目の模様の入ったどてらを着せる。中の着物は、鋲打ちの赤い肌着である。定番演題なので、各組でさまざまな工夫を凝らしている。以下にその一端を紹介した。

【盛岡山車『和藤内(紅流し)』に凝らされた工夫】
・背景に滝の絵を描く
・滝の流れをイメージして上からドライアイスを流す
・背景に立体的な滝を作り、シブキ等を添える
・松明の炎を赤く染めた綿を使って表現する
・松明の炎をアンドンで表現し、夜間に中からライトを灯す
・松明の炎をアンドンで表現し、中に複数の電球を入れて点滅させる
・松明を横向きに構える
・松明と笠を内側に構えて透かし見るような格好に作る
・橋の表面に砂を吹き付けてざらざらした質感に仕上げ、石造らしく見せる
・和藤内を小振りに作り、橋を大きく作る

 とりわけ松明を横にかざす工夫は功を奏すようで、紅流しの見得の姿を大変鮮やかに見せてくれる。編み笠をつまむ手の形も工夫のしどころである。戦前の写真をいくつか見てみると、目線が非常に工夫されている。おおむね川面を睨んでいて、背景の滝の描写もダイナミックだ。歌舞伎山車の中ではズバ抜けてかっこいいので、後に長く引き継がれた理由がよくわかる。

 藩政期の盛岡の記録に、すでに「国姓爺の山車が出た」ことが記されている。沿岸の釜石市周辺にも藩政中期の国姓爺合戦の模倣といわれる「虎舞(とらまい)」が伝承することから、ほぼ同時期に城下にももたらされたのではないかと筆者は推測している。原典である国性爺合戦の人形浄瑠璃は近松の戯作の中でも最高級の人気を得たもので、上方から江戸にかけて読み本・幟・団扇絵などにされて大流行したものであるから、和藤内は「時の流行に乗って作られた山車」の最古の例と定義できるかもしれない。

「虎退治」紫波町日詰橋本組昭和63年

 紅流しに比較して製作例は少ないが、和藤内が伊勢皇太神宮の護符で虎を生け捕る場面も『和藤内虎退治』としてたびたび山車になった。
 義兄に援軍を請う為明国に上陸した和藤内が、途中千里ヶ竹(せんりがたけ)の藪の中で虎狩りの勢子の喧騒を耳にし、竹薮から飛び出して来た虎と取っ組み合う。大事を前に身体をいたわるよう母に諭された和藤内は、伊勢皇太神宮の御守りを頭上にかざして虎を睨み据える。護符の威徳に虎は尾を伏せ、見る見る萎縮してしまった。この様子を見ていた勢子たちは、始めは「小国のもの」と馬鹿にしていた和藤内を主と仰ぎ、味方についた。上記の紅流しより前の部分のエピソードであり、国性爺合戦では一番人気のある場面で和藤内に虎狩りのイメージを定着させた。
 山車では、虎と対峙した和藤内が皇大神宮の護り札をかざしたところを作る。赤と黄色の撚り鉢巻に撚り襷をかけた姿が、紅流しとの温度差を作る。 沼宮内のろ組では、札は前に突き出して刀を振り上げた姿に飾った。二戸の五日町では実際の歌舞伎に準拠し、どてらは諸肌脱ぎにしてわらわ髪を鉢巻で束ねた和藤内とした。

 昭和初期の音頭を見ると、「黄河の水」「北京の城」といった言葉が散見され、当初は異国情緒を感じさせる演題として捉えられていたことがわかる。青森県津軽地方のねぶたには現在でも強烈な中国趣味への傾倒がみられるが、南部領のつくりものにおいては、『和藤内』のみがわずかにその面影を残しているといえよう。明治、大正にかけての山車の古い絵図にも現在のものとほぼ遜色のない和藤内の山車絵が見られ、盛岡山車一の伝統を誇る、ロングセラーの演題であることが窺える。
 平成18年の盛岡祭りには、数十年ぶりに和藤内に対応する見返しとして『錦祥女』が出た。中国貴婦人のエキゾチックな衣装を纏い、獅子ヶ城の欄干から弟の待つ川下に向けて紅粉を流す姿であった。紅の流れを布で表現したのが粋である。翌年早くも大迫の行灯山車や、石鳥谷の山車で学ばれている。


岩手県久慈市

 他地域では、圧倒的に虎退治の和藤内が多く、自身紅流しの和藤内を岩手県外ではほとんど見たことが無い。山形の新庄では、胸から血を流して欄干に倒れる錦祥女を描きはしたものの、和藤内はそれとは無関係に虎と戦っているというような構図を採り上げた。

【写真抄】
(1枚目)昭和61年盛岡市愛宕町み組。現在ほとんど見られなくなった「肌色に筋隈取」の和藤内である。地味な作品だが、すらりとしていて顔も勇ましく、バランスがよい作品。このほか筆者は、昭和60年沼宮内、平成3年日詰、平成4年石鳥谷、平成8年盛岡、平成10年石鳥谷、平成11年沼宮内、平成18年盛岡(写真2枚目)、平成19年石鳥谷で紅流しを見物している。かなり早い時期から「ありふれた演し物だなあ」と歓迎していなかった記憶がある。(3枚目)私が初めて見た和藤内のトラ退治。虎は小ぶりだが、精緻に作られている。もともと昭和62年に盛岡の本組が使った人形だが、無地の紫の着物に綱を縫い合わせて柄を作っていたところを染めに直すなど何点か作り変えられ、日詰・志和・川口などに登場した。木彫りの歌舞伎顔では一二を争うすばらしい頭である。見返しに虎の尻尾をちょろりと覗かせていたのが印象に残っている。和藤内の虎退治は平成10年代以降に頻繁に作られるようになり、平成14年沼宮内、平成15年二戸、平成16年盛岡…と見てきた。虎は前潟のわ組で出たものが大きくて立派であった。和藤内の人形は、おおむねどれも気が利いていたように思う。


文責・写真:山屋 賢一

(ホームページ公開写真)

日詰(橋) 石鳥谷(橋) 盛岡(橋)

沼宮内(虎) 一戸(虎) 日詰(虎) 盛岡(虎)


本項掲載:盛岡市愛宕町み組S61(紅流し)・盛岡市厨川や組H18(紅流し)・日詰橋本組S63(虎退治)・久慈市中組H20・大槌町陸中弁天虎舞袢纏




山屋賢一 保管資料一覧(盛岡山車のみ)
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
紅流し 沼宮内ろ組@
盛岡み組(本項)
日詰上組
盛岡城西組・南大通二丁目
石鳥谷下組@
沼宮内ろ組A
盛岡や組(本項)
石鳥谷下組A
盛岡歴史文化館展示山車
日詰橋本組@
石鳥谷上若連

盛岡い組@
盛岡い組A
盛岡か組
盛岡川原町
盛岡新盛組
盛岡め組(新聞写真)
盛岡み組・日詰橋本組A
一戸橋中組
石鳥谷中組
沼宮内ろ組(新聞広告)
二戸市@A
盛岡み組(煙山)
日詰橋本組(富沢)
盛岡城西組(圭)
盛岡や組(圭)
釜石尾崎神社祭典山車(煙山)
石鳥谷下組

盛岡み組(煙山)
盛岡い組(集合番付)
盛岡川原町
盛岡め組・盛岡い組・沼宮内大町組(国広)
盛岡城西組
盛岡よ組原画(富沢)
虎退治 盛岡本組七友会
日詰橋本組(本項)
沼宮内ろ組
二戸福岡五日町
盛岡わ組
一戸西法寺組
盛岡城西組

二戸福岡田町
大迫下若組
大迫若衆組
盛岡本組@
盛岡本組A
盛岡は組

青森県野辺地町(イベント記事)
盛岡本組七友会(香代子)
沼宮内ろ組
盛岡わ組(圭)
一戸西法寺組
盛岡城西組

盛岡本組(富沢)
盛岡は組(集合番付)
盛岡は組
盛岡よ組原画
錦祥女 盛岡や組
石鳥谷下組
盛岡歴史文化館展示山車

大迫下若組


呉将軍甘輝 盛岡城西組

ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

義理と情けの 絆に縋(すが)り 首尾を見詰むる 水の色
(べに)の誓いに 勲(いさお)を立てる 誉れも千代に 和藤内
沖を眺めて 躍りしこころ 時は来たれり 国姓爺
(こくせんや)
貞女犠牲の 血紅の流れ 和唐(わとう)甘輝(かんき)と 手を握る
武勇輝く 流れに灯
(ともし) 心わきたつ 水の色
月は傾く 流れる灯し 橋の北京
(ペキン)の 城の下
姉が忠義の 身の紅流し 甘輝将軍 味方する
敵か味方か 黄河の水に 分け目知らする 紅と白
松明
(まつ)をかざして あやしき紅の 流れ来たれと 和藤内
石橋
(はし)を踏み出し 見守る川に 望み叶わぬ 和藤内
父の祖国を 再興すべく 心は躍る 和藤内
紅の流れに 笠投げ捨てて 日ノ本無双
(ひのもと むそう)の 和藤内
(くれない)染まる 水面を照らし 揺れる松明 和藤内
異国をはせる 大和の勇士 四百余州
(しひゃくよしゅう)に 轟けり
怒りの筋隈
(すじぐま) 闇夜に映えて 歌舞伎名代の 紅流し
明の再興 大望いだき 目指す赤壁
(せきへき) 獅子が城
(以上 紅流し)

※錦祥女

義理と情けに 錦しょう女(きんしょうじょ)が 赤き心の 紅流す
明くれば旭を 父ぞと拝み 涙流れて 大黄河
紅の源 命に代えて もののふ甘輝の 名を守る
甘輝落とせず 無念の最期 悔し涙と 流す紅

一夜千里と 飛鳥(あすか)の如き 虎を生けどる 和藤内
神の威力
(みいつ)で 千里が竹に 虎を生け捕る 豪のもの
勇猛豪傑 正義のこころ 大虎退治の 和藤内
千里が竹場 猛虎を捕らえ 目指すは甘輝 和藤内
伊勢の護符
(まもり)に 尾を伏せなびく 不思議現れ 怯む(ひるむ)
神の御威
(みいつ)で 千里ヶ竹に 虎を生け獲る 和藤内
わたる大陸 千里ヶ竹の 猛虎従え 獅子ヶ城
性爺廟
(せんやびょう)とて 台湾国に 神とあがむる 和藤内
甘輝城
(かんき)目指すは 千里が竹場 猛虎諌めし(いさめし) 伊勢の護符(ふだ)
大虎睨みて 日の本神(ひのもとがみ)の 威厳示すか 和藤内
(以上 虎退治)


和藤内をあしらった法被(岩手県大槌町 陸中弁天虎舞)


※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ

inserted by FC2 system