盛岡山車の演題【風流 巴御前】
 

巴御前

 



 巴御前(ともえごぜん)は平家を都から追い出した旭将軍木曽義仲(あさひしょうぐん きそよしなか)の妻で、非常に武勇に優れた女性であった。緑の黒髪に鉢巻かいがいしく、小脇に長柄の長刀を抱え込んだ芙蓉(ふよう)の女武者、馬上の勇姿が盛岡山車に登場する。

 義仲は一時都を占拠して栄華を誇ったが、部下の多くが洛中で乱暴を働いたり、義仲自身旧来の公家衆らに礼を尽くさなかったりして評判を落とし、ついには後白河法皇を幽閉した咎で鎌倉の源頼朝軍に討伐されてしまう。義仲が敗れる粟津ヶ原(あわづがはら)の戦で、巴御前は最後まで義仲とともに戦死したいと願うが、義仲の「死ぬ時まで女連れであったと笑われたくない」との一言に返す言葉も見当たらず、敵将の首を素手でねじ切って今生の別れの証とし、涙ながらに戦場をあとにして木曽へ向かう。

盛岡市馬町一番組平成16年

 戦場でのすさまじいまでの奮戦振りに、敵の兵卒は皆巴を恐れて寄り付くことができなかった。鎌倉方の剛勇畠山二郎重忠(はたけやま じろう しげただ)でさえ、討ち取ろうと掴み掛かったところ巴がすばやく馬に鞭を入れて逃れたため、ただ鎧の片裾を千切り取っただけであった。「巴御前というのは人ではなく鬼だったのではないか」と鎌倉武士たちは後々まで語り継いだという。

新調された表用の女頭(沼宮内の組平成23年)

 盛岡山車の演題としては、盛岡市馬町一番組の巴御前がよく知られている。馬の前足で敵兵を踏みつけた巴御前が薙刀を斜め横に振り上げる、すらりと高い構図である。馬ものにおける最高技術の演題として節目節目で作られ、平成16年には倒れた武者を鎧を引きちぎる格好にして畠山に見立てた。周辺地域では潰しの武者を省いたものが昭和30年代に一戸町で出ており、また沼宮内で昭和62年に出た作品が不朽の名作として町内で語り継がれている。石鳥谷でも、大きな馬に薙刀を持った女人形を乗せて巴御前の山車を出した。大迫のあんどん山車にもたびたび登場する好題である。

 女の顔の大人形は現在ほとんど遺っていないため、製作はかなり難しいといわれている。なんでも男の顔の人形を塗り替え、白、桃色などで化粧して女の顔にするらしい。平成に入ってからは、沼宮内のの組で巴御前用の大型の女頭が新調されている。

見返しの巴御前(葛巻町新町組平成17年)

 等身大の女人形に簡単な鎧を着せて薙刀を持たせ、『見返し 巴御前』とした組もあった。一戸の本組は、佐々木高綱や畠山重忠に対応する見返しとして使っている。



(HP内公開)

沼宮内  一戸(見返し)  石鳥谷(見返し)




「武者を持ち上げる巴御前」岩手県野田村

(他地域)
 祭りの中の巴御前として、山伏神楽に演じられる姿がある。花巻市矢沢の胡四王神楽、同じく幸田神楽では「木曽舞」を競って演じて技術を磨いており、岩手県立博物館など市外の公演でも絶大な反響を得、当地早池峰神楽の評判を高めている。佳境に入って巴御前が目にも留まらぬ速さで扇子を操り殺陣を演じる姿は圧巻である。岩手県外では、青森県下北半島の「能舞」に巴御前を演じる名曲がある。郷土玩具の花巻人形には、武装の巴御前が乱れ髪を整える女性らしさを描いた作品があり、日本の土人形の中でも秀でた構図のひとつに数えられている。
 盛岡地方以外の山車に登場する巴御前には、粟津ヶ原という明確な場面設定を設けていないものもあり、木曽義仲第一の戦功である「倶利伽羅峠の戦」を巴御前を主役にして描いた作品などが登場している(岩手県花巻市・青森県八戸市など)。巴御前の怪力を表して、馬上で鎧武者を片手に差し上げる構想が二戸市や陸前高田市で工夫された。畠山重忠を伴う粟津ヶ原の場面は青森県野辺地町で近年何作か登場し、背のホロや薙刀などの小道具を含め、盛岡山車に近い構想であった。裸人形の武者ものが多い秋田県秋田市の土崎曳山では、巴御前の鎧を引きちぎる畠山を描いた作品があったようである。




※関連演題
●樋口次郎兼光
(ひぐちのじろう かねみつ)
 歌舞伎に出てくる木曾義仲・巴御前関連の人物で有名なのは、義仲の嫡子 源義賢(よしかた)と、家臣の豪傑 樋口兼光(ひぐち かねみつ)である。このうち盛岡山車に上がるのは後者で、「ひらかな盛衰記」の逆櫓(さかろ)という場面がかつてはたびたび採り上げられた。
 これは主君木曾義仲の恨みを晴らすべく、兼光が船頭「松右衛門(まつえもん)」に化けて義経を襲うという筋書きで、最後は櫂(かい)や碇を担いで兼光が大暴れする。特に碇を差し上げた兼光は碇知盛とよく似た構想で、『碇兼光』と題が付いたものもあった。最新の作は昭和50年代中頃の石鳥谷中組によるもので、平成以降は全く登場しなくなった演題である。



日詰下組平成26年

●倶利伽羅峠(くりからとうげ)
 のろまな牛とてあなどるまいぞ、狂えば恐ろしい獣よ…
 巴御前の夫、信濃源氏(しなのげんじ)の木曾義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)に従い兵を挙げたが、対する平家軍は10万・自軍は2万5千と、兵力に歴然たる不利があった。敗れれば今宵限り、勝てば一躍京へ上り天下を我が物に…義仲の胸中は昂ぶっていたのである。両者決戦の場は越中倶利伽羅峠(くりからとうげ)、山育ちの義仲にとっては勝手知ったる立地であり、勝機を掴むにはこの地に平家軍を引き付けなければならない。義仲は峠のふもとに白い幟(のぼり)をたくさん立てて山上に敵軍を釘付けにし、ひたすらに夜を待つ。闇夜こそ、数に劣る義仲軍の絶好の援軍となるのである。
 中国の故事に「火牛の計(かぎゅうの けい)」といって、牛の角に松明(たいまつ)をくくり尾に剣を巻き、胴には唐草の大幕をかけて敵軍に放つという奇策があった。夜更け、義仲は自軍の荷駄運びに伴った牛たちをありったけ集め、この火牛の計を平家の陣屋へ仕掛けるのである。その有様たるや、飛龍が火焔を吐いて天に昇るが如し。平家軍はたちまち大混乱に陥り、10万の兵を3万に減らして命からがら逃げ帰った。これが平家の「負け運」の始まりであり、都落ち・一の谷・屋島そして壇ノ浦へと、滅亡の道をたどっていくのである。

 平成26年に一戸の橋中組が『風流 木曽義仲倶利伽羅峠の戦い』として出したのが、おそらくは初めての盛岡山車化である。義仲は鎧を外した烏帽子・直垂の姿で采配を構え、傍らに源氏の笹竜胆(ささりんどう)の白旗を上げた。夜襲を表現するため、両者の間に篝火を焚いている。



●女暫(おんなしばらく)
 の項にも紹介したが、勧善懲悪の鎌倉権五郎を女形(おやま:女性を演じる男優)に変えて「女暫」と銘打って演じる趣向がある。正規の暫と同様、女暫も大太刀を払い悪人の首切りをするが、そのような大太刀を振るえる女性は日本史上、巴御前の他にいるはずもない。
 暫同様に大紋入りの柿色素襖(すおう)を広げる趣向もあるが、装束はやはり女性らしくより華やかに、着物は紅白の格子柄を片肌に、冠は紅白の梅が彩っている。紋は演者によって様々に変わるので、山車の上でも様々な意匠が使われている。型はもともとは元禄見得のみだったが、一戸で手掛けるようになって本家暫と同じ程度まで幅が広がった。



(HP内公開)

元禄見得(石鳥谷)  元禄見得(盛岡)  大太刀(一戸)  下がり(一戸)  








文責・写真:山屋 賢一



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
風流 巴御前 沼宮内新町組
石鳥谷上若連
盛岡一番組(本項1枚目)
沼宮内の組(本項2枚目)

大迫あんどん下若組
軽米町
野田村(本項4枚目)
盛岡一番組@
盛岡一番組A
一戸橋中組

花巻若葉町
陸前高田館山車
青森八戸
石鳥谷上若連
盛岡一番組(正雄:色刷)

盛岡一番組@
盛岡一番組A
日詰消防一分団
見返し 巴御前 一戸本組
沼宮内の組
葛巻新町組(本項3枚目)
一戸橋中組
石鳥谷上和町組
風流 樋口次郎兼光 盛岡新穀町
盛岡材木町
一戸本組
盛岡め組
沼宮内愛宕組(樋口義勝)
石鳥谷中組
盛岡新穀町
盛岡め組
風流 木曽義仲倶利伽羅峠 一戸橋中組・日詰下組(本項5枚目) 一戸橋中組
見返し 女暫 石鳥谷上若連@A
一戸西法寺組
盛岡や組
一戸橋中組
盛岡さ組(襲名披露)

花巻市
盛岡さ組
ご希望の方は yamaya@iwapmus.jpへ

(音頭)

見るも勇まし 粟津ヶ原(あわづがはら)に 巴御前の 艶(あで)姿
今に伝わる 粟津ヶ原に 巴御前の 名を残す
木曾
(きそ)に粟津の 名残も後に 香(かおり)ゆかしき 法(のり)の道
せまる巴の 騎馬武者姿 薙刀
(なぎなた)かざして 艶やかに
時は元慶
(がんぎょう) 元年の睦月 粟津ヶ原の 一戦を
一騎当千
(いっき とうせん) 巴の御前 男勝り(おとこ まさり)の 勇ましさ
男勝りの 薙刀構え 義仲
(よしなか)恋しや 巴御前
鬼神に勝る 巴御前 天下に響く 其の勇姿



※樋口次郎兼光

木曾(きそ)の流れに 樋口の次郎 朝日輝く 船の上
武士の鑑
(かがみ)と 呼ばるる樋口 今はこの世の 語り草
樋口兼光 逆櫓
(さかろ)の夢も 壮図(そうと)むなしく 世に伝う



※木曾義仲 倶利伽羅峠の戦い

源平合戦 倶利伽羅(くりから)峠 平家の眠りを おどろかす
燃ゆる松明
(たいまつ) 昂(たか)ぶる火牛(かぎゅう) 義仲夜襲の 蹄音(ひづめおと)


※女暫

女しばらく 巴の御前 払う大太刀 女見得
歌舞伎舞台に 巴の御前 太刀を担いだ 女形
(おんながた)
女しばらく 悪人退治 巴御前の 勇ましさ



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