青森県むつ市 田名部まつり

 



祭日の田名部
 田名部まつりは、実に「自慢したい祭り」である。見に行ったと誰かに伝えたくて仕方ないし、それ以上に、このお祭りを「ウチのお祭り」と胸を張れる下北の人たちがうらやましくてならない。

 青森県下北半島の山車は全国的に見ればありふれた姿なのかもしれないが、北東北という特殊な山車文化圏の中では際立った異彩を放っている。陸路ではなく海路を経て伝わった山車であるため、趣は京・関西の風合いである。今でこそ全国的に「異端」ともいうべき進化を遂げた北東北の風流山車ではあるが、かつては下北の山車と大差ない姿をしていた時期があったのではないか、と田名部まつりを初めて見た年は思った。それは下北の山車が、否、田名部まつりそのものが、他地域が通り過ぎてしまった姿を今に残した「変化の止まった姿」に感じられてならないからだ。祭典の夕方、田名部界隈を訪れて思う…「江戸時代の夜祭りに来たようだ」と。

田名部神社を出発する山車
 田名部まつりの山車は黒塗りの屋根で神体の尊像を守り、背面を絵柄を織った錦幕で飾ったものである。同型のものは、大湊、脇野沢、大畑、川内、大間、佐井…と下北の各地に見られるが、下北の玄関となる野辺地を境に全く見られなくなる。下北の尊像が野辺地以南では飾り人形となり、錦幕は絵となり、さらに南下すれば見返し人形飾りとなる。ねぶたでは送り絵に変わる(ねぶた送り絵のキャンバスは、くしくも田名部の錦幕とよく似た仕様なのだ)。
 人形のあり方も風流山車とは違う。町のシンボルとして、毎年変わらず飾られる等身大・あるいはやや小ぶりな人形である。
 更新しない人形とはどんなものか。新盛組の山車を、ためしに小屋入りまで追いかけてみた。格納庫は神社の境内にあり、山車は鳥居の前に到って急に止まる。あわただしい雰囲気が辺りを覆ったと思うと人形の顔が布で隠され、すぐに山車から下ろされた。ばたばたと人形を抱えた引き子が集会場へ駆け込み、上座に人形を据える。お供え物をして灯明をともし、顔を覆う布を丁寧に取り外して顔役らがこれに参拝をする。錦幕も同じく上座にかかっている。このようにして山車飾りをお祀りした後、ご苦労さんの宴会が始まる。
 宴の間も若者たちは忙しく、尊像が降りてしまった山車をきちんと小屋入りさせ「夜の化粧」(後述)をすっかりと外す。明日の朝そのまま運行できるような姿にして、やっと宴席に付くことができる。
 山車人形は、ここではっきりと神様(御神体)として扱われている。田名部祭りの5台の山車のうち新盛組の人形が一番神様らしくない姿をしているから(後述)、新盛組でこのような儀礼を行っていることが、ほかの4町での同様の儀礼をほぼ証明している。事実、山車小屋についてはすべての組が神社の境内に設けており、鳥居をくぐって山車を出す。「移動式神社」といわれる山車のあり方が、下北には非常にわかりやすい形で残っていた。山車のあり方についての確かな納得を、この例以外にもいくつか田名部まつりはもたらしてくれた。

夜の山車(猩猩山)
 地域差が祭りの魅力である。下北の山車は京風・中央世界の趣を全面に残しながら、きちんと地域差を含んでいるのが心憎い。昼の京風が、夜になると大変エキゾチックな「下北風」に変身するのである。これは、詰まる所夜祭りに際した山車の電飾であるのだが、下北のような独特な解釈で京風山車を電飾している例は他に無い。センセーショナルな夜の姿は、下北山車の最も美しい姿でもある。
 昼間は献額や錦幕、刺繍、染物などで飾られている部分が、夜はすべて「額」と呼ばれる絵灯篭に交換される。絵灯篭の意匠は昼の幕や額縁に似せてあって地の色が赤く、これを模様の入った黒枠で囲う。裸電球が内側から照らす灯篭の赤は、昼間の赤とは違う味わいの赤である。「昼夜の化粧替え」は、東北にあっては下北山車独特の風習であり、「額」は「灯篭・行灯」と一口には片付けられない「ねぶたとも提灯とも違う」下北の絵灯篭である。
 絵灯篭大小の中でも見所となるのが、前面下部及び背面全体に掲げられた武者絵であり、この武者絵ばかりは毎年趣向を改めるようである。錦絵や昭和期の童画を模して各組競って工夫し、山車の他、神社境内の神楽舞台にも一対が掲げられる。冬に下北を訪れた時はホテルの宴会場にやはり一対が掲げられており、下北の祭り心の象徴に位置づけられているのを感じた。
 田名部を含め、下北の山車はこの夜の姿で一番盛り上がる。一方昼間は、典雅な姿で荘重に運行する。

 田名部祭りの山車人形は次の5体である。大黒様と恵比寿様はやや大振り。赤ら顔の猩猩は顔の前で杯に柄杓で酒を注いでいるが、解説を聞いてみると妖怪とか妖精として捉えられているらしい。稲荷はお爺さんの人形に対の白狐、軒にはその年の出穂を供えて吊り下げる。
 田名部まつり見物の一番大きなきっかけは、「香炉峯」という山車の存在であった。これは平安女流作家の清少納言を乗せた山車で「枕草子」に出てくる中宮定子の謎かけの話、雪見の御簾を差し上げる姿をかたどったものである。清少納言は知恵の神として尊像に加わり、田名部山車の「後ろ山」を勤める。
 いずれも高位置で屋根のかかった舞台の中央に据えられているため、なかなか全容を見られない。夜は灯篭が目を引くので人形に視線が向かなくなりがちだが、昼間は屋根の影を受け日章旗が十字に舞台を遮るのでさらに見えなくなる。華奢な部分を上から糸で吊っていたり、風流山車を見慣れた目には中途半端な体勢で静止しているものもあったので、「もしかしたらからくりで動くのか」とも思ったが、動かなかった。この不思議な完成度も「進化が止まった」山車なりの古式であろう。

(整理)田名部まつり 各組の趣向
組   名 山車の名 (夜)正面の飾り絵H18 (夜)背面の飾り絵「額」H18 (夜)正面の飾り絵H24 (夜)背面の飾り絵「額」H24 (昼)刺繍飾りの絵柄
新町新盛組 香炉峯
(清少納言)
かぐや姫 平安美人 吹雪をついて(若武者) 唐人図→鯉掴み
・鞍馬山
本町明盛組 蛭子山 天の岩戸 倶利伽羅峠 金太郎 鬼若丸 仙人図(鳳凰)
・仁田四郎忠常
柳町共進組 大黒山 斎藤道三 天草四郎時貞 一丈青 鐘旭さま 新羅三郎義光
・御所車
小川町義勇組 猩猩山 唐獅子 静御前 女性化した猩々 大黒天と風神 仙人図(亀)
・仙人群像
横迎町
豪川(ごうせん)組
稲荷山 小楠公 桶狭間の義元 加藤清正 羅生門 仙人図(鶴)
・鶴を捕らえる図
田名部神社神楽舞台:平成18年「鵺退治(源頼光・猪早太)」/平成24年「小牧山合戦(本多平八郎・加藤清正)」

※川内では弁財天・恵比須・大黒・布袋・坂上田村麻呂、佐井では高砂・恵比須大黒・養老の滝・大石内蔵助などの尊像を山車に乗せている。


『鬼若丸』の額灯篭(明盛組)
 8月19日の夕方に田名部に着いた。下北駅近くに宿を取って、1泊2日で20日の昼過ぎまで祭りを見物した。田名部祭りでは、山車や郷土芸能が祭日の朝に「参社」し、特に山車についてはそのまま夜まで動かず、神社の参道に止まっている。動かないといっても放置されているわけではなく、若衆が絶えず多色の囃子を奏している。これもかつては南部領広域において見られた「山車の役割」らしいのだが、今はっきりとした形で残るのはこの例ぐらいである。お囃子方は「乗り子」といって青少年が勤め、その姿は山車の下の化粧幕にすっかり隠れて見えない。

 田名部まつりのお目当ては、下北の上質な郷土芸能の見物でもある。観光パンフレットなどではほとんど抜け落ちているが、外せない見所だ
 神社に到着して、まず能舞の神降し(祈祷舞)を見た。切れ味のよい上品な権現舞である。決して見やすい場所とはいえない社殿の中を賽銭箱の向こうから見るというシチュエーションであったが、30人ばかりの観客が一向にいなくならない。2〜3分で居なくなるだろうと高をくくっていたのに、皆能舞にかぶりついている。舞手が見せ場見せ場でかける掛け声がいかにもその熱狂に呼応しているようで、それはそれは輝かしい芸能の姿であった。
舞台上の白糠能舞『翁』
 社殿から神楽舞台に移った能舞は、さらに熱い観客の視線を浴びる。約2時間の番組は、俗に云われる「儀礼舞」がきっちり先行するのではなく、主に武士舞と手踊りを交互に演じながら展開していった。子供たちが活躍する演目あり、ベテランが魅せる演目ありで、特にもアクロバチックな演出の「鞍馬」はすばらしい仕上がりであった。手踊りでは、カラオケ音源にもかかわらず「もちつき踊り」が大変良かった。舞台前に用意された席がすべて埋まったのは勿論、本殿の欄干に登って見物する客も大勢居て、100人も150人も「本気の観客」がいた。
 19日の夜はこのように下北能舞の実に充実した舞台で暮れ、お開きの10時を過ぎて神社付近に黒の祭り半纏が目立つようになり、やがて山車が出発していく。山車の先導は夜は丸提灯、昼間は白扇で、長い引き綱の要所3箇所程度に配置され互いに連絡を取り合いながら山車を進める。引き子は多くなったり少なくなったりするが、夜の運行には特にたくさん付くようである。消防服の名残のある黒地赤帯の半纏はとにかく粋で、少女も不良っぽい若者もこれを纏えば皆、粋で実直な祭り人に見えてしまう。真夏の祭りだが長半纏、脱ぐなら脱ぐでだらだらしない粋な脱ぎ方をする。手拭も鉢巻もポーチも、ドレスコードをかけたがごとく皆粋で渋い。
 恵比寿山の半纏には背中に恵比寿さまを染めたものがあり、全てが恵比寿さまの半纏でないのも逆にかっこよかった。4輪の田名部の山車はとにかく回りにくい構造で、ゆえに運行の佳境は、中央の山車祭りと同じく辻のやりまわしである。まず引き子が完全に山車を進めたい方向に動ききってしまい、その後若衆が車の近くで「せえの」と気合をかけ、俄かに引き子が駆け始めればゴゴゴゴ、ダダダダと轟音を上げて山車が回転する。回り切ると囃子が急にリズムアップする。「やンまやんれ、やまやれ」と引き子が騒ぎ、そのまま盛況のうちに帰途に着く。直帰ではなく、大体2時間から3時間くらい町内をゆっくり巡ってから小屋入りに至る。
三車別れ
 途中山車の背面同士を向き合わせて樽酒を開けて酌み交わす「別れ」を毎晩行う。祭りのクライマックスとして有名な「五車別れ」はそのもっとも大規模なものである。夜ゆえか、更新部分であるがゆえか、人形ではなく背面の武者絵を向き合わせるのが面白い。長い引き綱を下ろした正面では、若者たちが提灯やジュースの飲みさしなどを芯に据えて輪を作り、「北海盆歌」など民謡を歌って輪舞する。

 翌朝神社前に10時頃に着くと、もう山車は並んでいて、太神楽や能舞が神社に参拝するところであった。賽銭箱の前でひと踊りした後、各芸能は町内を門付けに廻る。軒先で獅子が抜き身を払い邪気を斬る太神楽は上品で、舞振りがキリリと澄み渡っていた。傍らに引かれる屋台は武者絵の刺繍や黒塗りの屋根を供えた「ミニチュア山車」様のものである。能舞の門付けで演じられる獅子まわしは昨晩の権現舞と比較するとわずか数十秒の短いものではあるが、切れ味の鋭い能舞の囃子が四方に響く有様は、遠方の余所者にとってなんとも贅沢であった。
田名部の手古舞
 山車は正午に神輿に付属して5台揃って運行する。夜は屋根を付けた縦長の提灯が山車に先行するが、昼間は八戸周辺と共通する横旗に変わっていた。人形の乗っている左右の柱に大人が一人ずつ付き扇で指示を出す姿は、まさに祇園祭を連想させる。昨晩に見た賑々しさは微塵もなく、代わりに、どこか垢抜けしないがたまらなく愛らしい手古舞金棒引きのつややかな姿、金銀に輝く「正統」とも形容しうる堂々たる山車の姿に居住まいを正した。家々で山車に祝儀が出されるのは主にこの昼の運行の時らしく、ビールやお茶を振舞われ何度か休憩を取りつつ、合同運行が進んでいく。


 下北には知人の助力により冬に何度か足を運んだが、夏場に列車を乗り継いで行ってみて、いかばかり遥かな土地であるかわかった。この遥かな地が下北山車文化圏の玄関口であるから、さらに奥へと踏み込むのは少々根気が要りそうである。今はとりあえず田名部の山車の姿から、この先に広がる広大な下北山車文化の有様を展望し、遥かな祭りに思いを馳せたい。


(山車運行日程概要)
 18日 8:30出発→13:00田名部神社(以降神社前〜21:00) 21:30夜間運行開始→深夜1:00過ぎ帰着
 19日 8:30出発→11:00田名部神社(以降神社前〜22:00) 22:00夜間運行開始→深夜1:30過ぎ帰着
 20日 7:30出発→8:20田名部神社/11:45〜合同運行(神輿に先行)〜19:30田名部神社(以降神社前〜22:00) 夜間運行後深夜2:00納め

※「別れ」:二車・三車はいずれも夜間運行開始30〜40分後、五車別れは20日のみ


(平成18・24年見物 文責・写真:山屋 賢一)

※岩手県を中心に北東北の屋台山車行事を紹介

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