天慶の乱(平将門)
義侠に厚い将門は、自分を頼った謀反人をかくまって国府軍と交戦し、次いで関八州の国璽(こくじ)を奪って坂東に独立国家を打ち立てようとした。この壮大な構想は破れたが、後に源頼朝による鎌倉幕府という形で結実することを思えば、将門こそ、武士の世という新時代の旗手であったといえる。 盛岡山車伝承域最北端の二戸郡一戸町で将門・純友の山車がよく出るのだが、中には普通の騎馬武者と大差ない外観の若武者の将門もある。NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で、平将門は英雄として評価し直された。このとき一戸祭りに出された将門の山車の絵紙が、今も町内に引き継がれているのである。秀作の若武者だし、三十代前半で落命した史実の将門はきっとこういう姿だったのだろうが、やはり何か物足りない気がする。山車や錦絵を見慣れた目から見ると、やはり将門は正義であるよりも、ダークサイドに堕ちてこそ輝く英雄なのだと私は思う。 将門の馬は、どちらかといえば下を向いた馬である。謂れによれば、将門の馬が風にあおられて棹立ちになったところを、平貞盛(たいらの さだもり)が父の怨みを宿した「天誅の一矢」を放ち、将門の眉間に命中させたのだという。沼宮内の大町組で出した将門の馬は、このようないわれを反映してか、方向転換を思わせる独特の角度がついていた。 元図は神田神社に納められた有名な将門像を、戦前の国史画帖にてこの姿のまま馬に乗せ、金棒を持たせたものである。画題は「親王将門の最期」で、朝廷に逆らった将門が妖怪化して表現され、討伐軍の正義の矢に眉間を射られ絶命する場面だ。顎鬚を立派に蓄えた将門のモチーフが印象深く、原案がどこにあるのかといろいろ考えてみたが、五月人形の「鐘旭さま」のイメージが少なからず加味されているように思われる。これが全国の武者を題材とする山車の飾り物に採り上げられ、盛岡山車伝承域にも伝わった。本来悪役のはずの妖怪将門が、完全に主役を食って主役に上がっている。勇ましい構図だが、いざ山車にするとなるとなかなか難しく、特にも大人形の盛岡山車では、迫力を崩さず、かつ構図を崩さずに作るのは至難である。一戸町で野田組が2度取り組み、平成に入ってからは沼宮内の大町組が演題に加えた。他の系統では、二戸の平三山車、青森の三戸・八戸・青森・弘前、遠くは大阪岸和田のだんじり彫刻にも将門が見られる。
しかしながら、「将門は自分の館を『御所』と呼ばせ、自らは恐れ多くも『親皇(しんのう:皇太子の意)』を名乗って朝廷に弓を引いた大悪人である。」というのが、長らく日本人の間に膾炙されてきた将門のイメージであった。祭典山車の将門も、こんな調子で実にマガマガしいオーラを放っており、まず顔色は人間のそれとは程遠く、手にする武具も刀や槍ではなくて、鬼が使う金棒である。着物は公家の衣冠装束で、目の上は書き眉であるが、そんな姿で荒馬に跨り、鉄の金棒を振り回して暴れているのだ。これはあまりにもインパクトのある騎馬武者であり、一度でもこのような将門の山車を見た人は、一生平将門の名を忘れないだろう。


ついでながら、藤原純友の山車についても述べておきたい。純友は将門と同じ時期に、瀬戸内海で海賊とともに反乱を起こした伊予の国の役人である。山車の純友は海賊のイメージを色濃く写したもので、荒れ狂う海原に躍る八幡船(ばはんせん:海賊船のこと)の船首に人形を乗せる。髪の毛を振り乱した凄みのある髭面の武将が大鉞を頭上に振り上げる姿は、盛岡周辺における『毛剃九右衛門』の構図に酷似している。辺境一戸において、難解な歌舞伎ものを著名な歴史物語と組み合わせることで編み出された演題であろうと筆者は長らく考えている。
文責・写真:山屋 賢一
(写真提供御礼 沼宮内大町組『平将門』・一戸町橋中組『平将門』・二戸市役所お祭り同好会『平将門』は読者様より)
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沼宮内大町組 一戸野田組(富沢) |
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一戸橋中組 一戸橋中組(富沢) |
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盛岡三番組(本項) | |
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