盛岡山車の演題【風流 助六】
 

助六

 



沼宮内新町組昭和61年

 侠客花川戸助六(はなかわど すけろく)は、江戸一番の伊達男である。「江戸三千両」といって、朝は魚河岸、昼は歌舞伎座、夜は吉原で千両の大金が動いた時代。歌舞伎「助六由縁江戸櫻(すけろくゆかりの えどざくら)」の舞台は花町吉原、主役は魚屋のように威勢のいい若者、これを昼の歌舞伎座で見るわけだから、助六には「江戸っ子の夢」ともいうべきものがこれでもかというくらいに詰まっている。吉原一の遊女は、微笑めば城も傾くので「傾城(けいせい)」と呼ばれた。傾城揚巻(あげまき)とのロマンスを交えながら華やかに展開する助六の物語は、さまざまな紆余曲折を経て鎌倉時代の曽我兄弟の仇討ちへと帰着する。助六は曽我五郎(そがの ごろう)が浮世をしのぶ仮の姿、父の形見の名刀「友切丸(ともきりまる:源氏の宝刀「髭切」か)」を求め、助六は遊郭に顔を並べる権力者たちと粋な喧嘩を繰り広げるのである。

 白塗りに剥き身の隈取り、杏葉牡丹(ぎょうよう ぼたん)の黒い羽二重小袖(はぶたえ こそで)を纏い、腰には尺八、紫色の鉢巻をゆらりと風に舞わせる助六。古来より紫には激しい気性を鎮める力があると信じられ、これが転じて熱を下げる効用とされ病人が紫の鉢巻を左に結ぶようになった(病鉢巻)。助六の場合は左でなく右に結ぶので、伊達結びという。番傘を開いて頭上にかざし廓に咲き乱れる桜の花を透かし見る助六の山車は、出れば必ず人気を取る構図だが、運行時の線張り(電線払い)が非常に難しく、傘を傷めてしまう惨事もあったほどである。傘の柄と端を両手で構える仕草の再現は組み上げる側にとっては至難であり、見事に達成した石鳥谷の上若連・盛岡のさ組は歌舞伎山車の名手といわざるをえない。

盛岡さ組平成13年

石鳥谷上若連平成17年

 昭和晩期まではすらりとした助六が少なく、がっしりした愛嬌ある風貌が多かった。傘の柄を持たない空いた手を桜の花びらを受け止めるように上に向け、左右に雪洞を灯し背景には朱の格子を備えて華やかに演出した。この当時も相当な人気演題だったが、沼宮内の新町組が既存のイメージを大きく覆し、羽織の裾を跳ね上げてかっぱと足を開き、番傘は威勢よく真上に打ち上げた大変格好のよい助六を作った。この作品が盛岡山車全体の助六をレベルアップさせる要因となった、と私は思っている。この作品以降、山車の助六は専ら八頭身のスタイルのいい人形となった。平成以降、懐手をしていたり閉じた傘を構えていたり、登場場面を採っても様々に趣向を容れた助六が出てくるようになった。
 平成に入ってからは、傘を手にした定番以外に様々な型の助六の山車が登場するようになった。盛岡観光協会は敵役「髭の意休(ひげの いきゅう)」を添えて2体仕立ての助六を製作、黒い着物の下の鮮やかな赤襦袢を思い切って片肌で見せたのが効果的であった。意休は平易な言葉で言うとやくざの親分のような役であり、悪人面の白髪の老人で、助六以上に派手な刺繍の羽織をまとっている。日詰の一番組が出したのは珍しい引っ込みの助六で、黒と薄紫が段々になった紙衣(かみこ)を着て裾をからげた立ち姿に作った。紙衣は喧嘩ばかりの助六を案じて母が着せた、紙で作った破れやすい着物である。この紙衣姿が一つの契機となって、助六が意休を討って名刀奪還の本懐を遂げる…というのがこの芝居の顛末である。盛岡のの組は、意休殺しの後に白襦袢一枚で天水桶(てんすいおけ)に隠れる『水入り助六』を構想、舞台いっぱいに展開させた大桶から薄水色の豆電球を流れるように点滅させ、従来に無い歌舞伎の本水を再現した。

『三浦屋揚巻』滝沢山車まつり平成13年

 見返しには、豪華な簪(かんざし)と打掛で目を引く遊女の女人形『三浦屋揚巻』が期待されるが、本格的に上がり始めたのは平成に入ってからで、昭和期には『藤娘』『元禄花見踊り』など助六に直結しない見返しになることが多かったようである。揚巻が、歌舞伎の女形を扱う見返しの中でもとりわけ豪華で費用のかかる趣向だからであろう。盛岡祭りについては左にあげたさ組の揚巻が最初、周辺域では石鳥谷町でやや早期に上がっている。衣装の最大の見所となる体の前の打掛は、鯉の滝登りを中心に様々な刺繍で彩られる。盛岡観光協会では手鞠や羽子板・伊勢海老など正月の風物を縫い取り、着物は黒地に白の模様を散らして雪を表現した。さ組の『助六水入り場』も実質として揚巻の姿であるが、打掛には秋の花を集めている(実際の舞台では、場面に応じて5様の変化がある)。単純な立ち姿で充分に見栄えがするが、煙管や手紙を使って変化を加える例も見られた。基本的には助六以外の見返しに上がることはないが、一度作ったことのある組が『車引き』『矢の根』『対面』などにリメイクして上げたことはあった。

一戸西法寺組平成27年見返し

 見返しに助六を作る例もあったようで、一戸・二戸にとどまらず盛岡市内でも取り組まれた形跡がある。近年は二戸の五日町町内会・一戸では橋中組と西法寺組が採った他、本組では幡隋院長兵衛の見返しに助六気取りの侠客『大口屋治兵衛(おおぐちや じへえ)』を採っている。


(他の地域の「助六」の山車)
 一体で助六の山車、というのは盛岡山車以外では見られないようで、たいてい意休と組の趣向であり、番傘は持っていても広げたりしない。山形の新庄まつりに花魁2人に精巧に作った遊郭、葉の黄色い銀杏の木や雪洞などを多用した美しい助六の山車がよく出てくる。


「助六意休」盛岡観光協会平成18年



文責・写真:山屋 賢一

(写真公開:助六)

大迫祭(川若組)  一戸祭(橋中組:見返し)  二戸祭(五日町:見返し)  「紙衣助六」日詰祭(一番組)  盛岡祭(さ組)   「水入り助六」盛岡祭(の組) 

(三浦屋揚巻)

盛岡祭(盛岡観光協会)   盛岡祭(三番組)  盛岡祭(さ組)  

本項掲載:沼宮内新町組S61・石鳥谷上若連H17・滝沢山車まつりH13見返し(盛岡さ組同年借上げ)・盛岡観光協会H18・滝沢山車まつりH22




山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
助六傘 沼宮内新町組(本項1枚目)
石鳥谷上若連@A(本項3枚目)
盛岡さ組@(本項2枚目)A
滝沢山車まつり(本項7枚目)
石鳥谷上和町組

盛岡一番組
盛岡い組
盛岡か組
盛岡さ組・滝沢山車まつり
石鳥谷上若連
滝沢山車まつり

盛岡一番組
盛岡い組
盛岡か組・石鳥谷上若連(富沢)
沼宮内新町組
助六意休 盛岡観光協会(本項6枚目) 盛岡観光協会(圭)
助六紙衣 日詰一番組 日詰一番組
助六水入 盛岡の組 二戸五日町(見返し) 盛岡の組
見返し助六 二戸五日町
一戸橋中組
一戸西法寺組(本項5枚目)
盛岡わ組
盛岡い組@
盛岡い組A
揚巻 石鳥谷上若連@
盛岡さ組@・滝沢山車まつり(本項4枚目)
盛岡さ組A
日詰上組
石鳥谷上若連A
盛岡観光協会
盛岡三番組
盛岡さ組B
石鳥谷上和町組
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)


花の吉原(よしわら) 意気地(いきじ)を建てる 助六ゆかりの 江戸櫻(えどざくら)
意地と張とに 男を建てて 名を揚巻
(あげまき)に 花川戸(はなかわど)
締めた鉢巻
(はちまき) 江戸紫(えどむらさき)は 揚巻自慢の 男ぶり
意休
(いきゅう)・揚巻 助六揃い 悪態(あくたい)言い切る 男伊達(おとこだて)
腰に尺八 見得きる姿 杏葉牡丹
(ぎょうようぼたん)の 五つ紋
杏葉牡丹の 羽二重
(はぶたえ)小袖 蛇の目(じゃのめ)の見得に 春を呼ぶ
募る想いを 蛇の目に込めて 助六ゆかりの 歌舞伎見得
江戸紫の 鉢巻締めて 侠客
(きょうかく)助六 喧嘩沙汰(けんかざた)
助六由縁
(ゆかり)は 桜に匂う 成田屋十八番(なりたや おはこ)の 家の芸
男自慢の 助六傘よ 花に賑わう 仲ノ町
(なかのちょう)
男自慢の 助六が 名こそ流るる 花川戸
廓通い
(くるわ がよい)も 仇討つためと 傘に隠した 男意気
江戸の華かや 助六の 意気地立ち退く 勇み肌
花の舞台で 蛇の目をかざし 美男
(おとこ)助六 見得を切る
通う吉原 その名も伊達な 助六ゆかりの 千代
(ちよ)の色
(ゆかり)の鉢巻 夜風に揺れて 吉原通いの 艶(あで)姿
粋の助六 紫を結び 蛇の目に透かす 桜花
(さくらばな)
桜吹雪を 蛇の目に受けて かぶく助六 五つ紋
源氏の宝刀 友切丸
(ともきりまる)を 探す為ぞと 身を窶(やつ)
源氏の宝刀 友切丸を 探し求めて 廓前
三浦屋
(みうらや)前の 天水桶(てんすいおけ)で ザブーンと上がり 見得を切る
繋ぐ成田屋 至宝
(たから)の芝居 粋な助六 江戸の華

※三浦屋揚巻
大手格子に 三浦の暖簾(のれん) 助六ゆかりの 仲ノ町
神に捧げる 銘酒の樽に 吉原名妓の 艶姿
傾城揚巻 その打掛けに 助六かばいて 夢果たす
花の吉原 火防
(かぼう)の桶に 名高き助六 水入り場
三浦屋揚巻 花魁
(おいらん)道中 薫る櫻や 仲ノ町 


滝沢山車まつり平成22年

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