盛岡山車の演題【風流 相馬大作】
 

南部忠臣 相馬大作

 



大正期の盛岡山車絵紙(もりおか歴史文化館提供)

 盛岡藩の藩主「南部家」はもともと現在の岩手・青森両県をまたにかける戦国大名であったが、豊臣秀吉が天下統一を宣言し諸大名に服従を呼びかけた時、家臣の大浦為信(おおうら ためのぶ:津軽為信)がいち早く時流を読んで主人に先駆けて秀吉に謁見し、津軽支配のお墨付きを得た。このためもともと南部領の一部であった津軽半島は、大浦氏の私領になってしまった。南部家はこの時、身内争い(九戸の乱)に手一杯で謁見が遅れ、あとになっていくら津軽の不正を訴えても後の祭りであった。以来南部家は津軽を怨み続け、津軽もまた南部家の遺恨を恐れて数々の施策を凝らし、中央政界にも積極的に近づくようになった。

 藩政後期、両者のこのような過程を経て、津軽家が位階の上で南部家と同格になった。虚実はわからないながら、津軽が中央の権力者と姻戚関係を結んだり賄賂をたくさん贈ったり…いろいろ悪さをして得た高位らしい。時の藩主南部利敬はくやしさのあまり病気になり、まもなく死んでしまった。

「関良助付」盛岡観光協会平成9年

 南部藩士の下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)は藩主の死を津軽横暴の結果と考え、主君の仇討ち、さらに南部家積年の恨みを晴らすためにも、高位を得た津軽藩主を討ち果たす決意をした。参勤交代から帰る津軽家の大名行列を通り道の矢立峠(やたてとうげ)から狙い、日頃蓄えた西洋軍学の賜物 紙の大筒(おおづつ:大砲のこと)を撃ちかけたのである。
 実はこの計画は、裏切り者が出て事前に津軽側にばれてしまっていた。秀之進が狙った大名行列は影武者の行列であったのだが、しかしこの事件は、十分に世論を揺さぶる力があった。長年の津軽家の悪事が次々と暴露され、たった数人の刺客におびえて偽の大名行列を繰り出した臆病ぶりも世間の笑いものになり、遂に津軽藩主は隠居に追い込まれた。義挙は結果的には、目的を達したのである。

 義挙ののち、秀之進は南部藩に迷惑がかからないように「相馬大作(そうま だいさく)」と改名して江戸で暮らしていたが、津軽方があらゆる手づるを使ってこれを「罪人」として捕らえた。武士の名誉の切腹ではなく斬首によって大作は絶命するが、本気で大作を罪人と見たものはいなかった。のちに大作は「南部藩の大石内蔵助」とよばれ、藤田東湖・頼山陽・吉田松陰など幕末の名だたる志士たちが、大作の義挙を讃えたという。

 盛岡山車「相馬大作」は大正初め頃からちらほらと製作例が見られる、伝統的な演題である。物語は全国的にも有名であるので、単に南部藩士の伝説だからといって「地元史」とみなすべきではない。が、近年は盛岡城築城400年を記念して製作されるなど、作る側も見る側も地元史として大作を捉えているようだ。
 山車としての相馬大作の面白さは、襲撃の武器として大砲を使っていることである。盛岡山車の演題の中で大砲の登場するものはこれ以外になく、どのように使うかも作り手の創意にゆだねられる。近代的な大砲ではなく、あくまで木製の大筒であったほうが場面にふさわしく、山車に説得力が出る。大砲の火縄の先の火は、着色した綿や光を反射して光るように中心に金紙を据えた赤い布などで表現された。赤いライトを仕込んで点滅させるような仕掛けもあった。
 もともと大作1人の趣向であり、左に掲げたような大砲を持っている構図、大砲を峠に据えて火縄を掲げたり、遠見をする姿などがあった。盛岡では珍しいことだが、なかなか絵紙そのままに再現されない傾向がある演し物である。昭和40年代に盛岡のは組が作ったのは、大作の門人関良助(せき りょうすけ)を添えた2体の構想で、これが大変味のある出来映えだったらしく、以来2体仕立てが定例化している。
 大作所用の斬馬刀というものが出身地二戸に残されている。大変大きな長い刀で、山車人形の大作も刀は腰に差さずに背負っている。



文責・写真:山屋 賢一



(ホームページ公開写真)

沼宮内 


本項掲載:大正時代の絵紙(盛岡仙北町:もりおか歴史文化館提供)・盛岡観光協会H9・九戸村南田H13見返し


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
相馬大作 盛岡観光協会(本項)
沼宮内新町組
二戸福岡五日町

九戸村南田(本項)
沼宮内新町組@A
盛岡鍛冶町
盛岡桜山神社祭典山車

二戸市福岡
盛岡観光協会(香代子)
沼宮内新町組(正雄)

盛岡桜山神社祭典山車
盛岡紙町鍛冶町
盛岡は組
盛岡は組(大正2年 開市三百年式典)
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)

君が恥辱(ちじょく)を 矢立(やたて)の山に 打ちて散らせし 武士の意地
破邪の日砲は いかなるものか 食い入て見よと 待つ峠
智勇優れし 南部の武士が 放つ怨みの 筒の音
相馬大作 矢立に篭もり 世直し図るは 主のため
慈覚大師が 所縁
(ゆかり)の山の 檜(ひのき)かすめし 者は誰(た)
忍び来る駕篭
(かご) 狙いを定め 打てば確かな 手の対い(こたえ)
国の恨みを 矢立の峠 晴らす武勇は 後の世に
見かけばかりの 花の侍よ 骨を太くと 励めかし


岩手県九戸村の山車


(写真抄)

 1枚目は大正時代の盛岡山車の絵紙で、相馬大作を採ったものとしては遡りうる最古のものである。実物の写真が沼宮内に残っており、現在より山車の丈が高く、松は一本山車の真ん中に立ち小岩も左右に張り出していて、人形部分の比率は現在よりかなり低いように見える。本項では1体の大作構想の代表作として公開した。
 2枚目は盛岡観光協会平成9年、9月14日の夕方に八幡町の門付音頭を行っているときの写真である。このような笠をかぶった大作は珍しい。観光協会の山車は自作可能な市内いくつかの消防組が製作を担ってきたが、この山車は新田町か組が手がけた珍しいもので、前作までの古色が払拭され味のある独特の作風で仕上げられた。桜は2通りの染め方を両側に併存させ、人形一組は前年奉納の太田お組『鎌津田甚六』と全く同じものを使っている。
 3枚目は九戸村伊保内の山車、平三人形の1体見返しである。九戸では太鼓はすべて山車の前に集めるので、見返しの前に太鼓は無い。人形ひとつで大作を作ると、盛岡流でも大体このような形になる。大作を江戸の人ではなく近代人として描いたところにこの作品の面白さがある。平下さんの手がけた相馬大作にはこの他、馬に乗った津軽の殿様を大砲を抱えて襲撃する構図もある。


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