盛岡山車の演題【風流 四条畷】
 

四条畷 楠木正行

 



盛岡観光協会昭和59年

 「太平記」など南北朝の軍記を扱う盛岡山車の演題は、後醍醐天皇方(南朝方)の武将を採ったものが圧倒的に多い。平成3年にNHK大河ドラマ「太平記」が足利尊氏を主役に放送されたが、このとき山車にされたのも『楠木正成』や『新田義貞』であって、反後醍醐の尊氏の山車はついに出なかった。青森ねぶたや博多祇園山笠でも同様の南朝贔屓があったようである。

 南北朝ものの盛岡山車で最も製作例が多く、かつ、ほかの地域では殆ど眼にできないものに、楠木正行(くすのき まさつら)の四条畷(しじょうなわて)の戦いがある。正行といえば決戦を前に如意輪堂に辞世を残す話が有名だが、盛岡山車が描くのはこの場面ではない。

 桜井の駅で父 楠木正成と涙の訣別をした小楠公(しょうなんこう)楠木正行は、やがて立派な若武者に成長し、父の遺訓を守って後醍醐帝の後継 後村上天皇に尽くした。四条畷に尊氏配下一の戦上手 高師直(こうの もろなお)率いる足利の大軍が押し寄せると、兵数に圧倒的に劣る正行は出陣に際して死を覚悟し、「帰らじと かねて思えば 梓弓(あずさゆみ)…」と如意輪堂の壁に矢で辞世の句を刻んだ。
 少勢で奮戦を続けた正行の鎧は次第に紐が緩んで隙間が出来、矢が刺さりやすくなった。これを見た師直は大量の矢玉を雨のように射掛けて正行を退けようとしたが、正行は兜を脱いで前方にかざし、これを盾に矢玉を防ぎながら猛然と進軍したという。兜の前に立つ三本角は、菊水の紋の入った父正成の形見である。満身創痍の正行は、最期の最後まで敵に向かうのをやめなかった。

『風流 小楠公』日詰下組平成7年

 四条畷の小楠公は盛岡山車の一体武者では最もよく出てくる演題のひとつで、戦烏帽子・鎧姿の若武者が、兜を片手に構え前方に突き出し、もう一方で刀を振り上げ敵陣に駆け込む様子を描いている。鎧の所々に矢を刺し、四条畷の合戦がいかに激戦であったか、正行がいかに奮戦したかを見る者の脳裏に鮮やかに描き出す。中には、松から何本も矢を吊って戦の激しさを表現したものもあった。人形の傍らには矢を防ぐための木の盾を、何枚か大道具に付ける。

 正行の山車は戦前に盛岡の二番組、戦後間もなく盛岡の川原町が作ったが、以降長らく途絶えていた。この間に一戸・川口・沼宮内で製作の形跡がある。昭和59年に盛岡観光協会が出してから異常なまでに流行を見せ、急激に製作例が増えて1体武者ものの定番となった。絵紙もこの時描かれたものが長く引き継がれ、定番の絵柄となっている(色を入れた絵と白黒の絵と2種類ある)。山車はおおむねこの絵の通りに作られるが、絵紙の構想を外れた例として、戦烏帽子を省いて長髪を整えたり鉢巻のみにしたものがあった。振り上げた刀は、刀身が体の外側に出ることもあれば、内向きになることもある。沼宮内では、正行の行く手に倒れかかる敵兵を添えて2体の飾りとしたものもあるようである。最近では盛岡山車の古参組の一つ 馬町一番組が2度手がけ、外注にも応じて得意演題としている。

『小楠公の母 久子』石鳥谷中組平成27年

 『四条畷』のほかに、『風流 楠木正行』、また特に一戸町では『風流 小楠公』の題で製作されている。石鳥谷の古い時期の山車には、下に紹介するような如意輪堂の場面を飾ったものもあったようである。
 対になる見返しとして一戸の上町組が『桜井の別れ』を採ったが、これは父に諭され今生の別れをする子供の正行であり、『四条畷』を物語として際立たせる良い効果を上げた(逸話詳細)。石鳥谷の中組は、正成戦死の報を受け自害をはかった正行を、母親が止め諭した逸話を見返しに採っている。

 敗れはしたが、正行の奮戦は楠木正成・北畠顕家・新田義貞…と次々に主力を欠き衰退の一途にあった南朝方を盛り返す大きな力となった。尊氏の子で二代室町将軍となった足利義詮は生涯にわたって正行の高潔な人柄を崇敬し、死後は正行の隣に葬られることを望んだという。

石鳥谷中組昭和61年



(ページ内公開)

日詰 ・ 岩手川口@ ・ 岩手川口A・ 盛岡 ・ 石鳥谷



(他地域の楠木正行の山車)

岩手県二戸市

 有名どころでは、千葉県の「佐原の曳き山」に矢を手にして辞世を残す正行の人形を乗せたものがある。風流山車では激しさ・派手さに欠ける為か、この有名な辞世の場面はほとんど山車になっていない。私が見ている正行の山車は青森ねぶた、弘前ねぷた、土崎曳き山(秋田)、花巻山車(岩手)、平三山車(岩手)…で、いずれも兜を片手にした鎧姿であった。青森ねぶたには正行が纏を立てて矢を防ぐという伝統的な構図がある(歌川国芳の錦絵によるものか)。重ねて登場しているのは二戸の平三山車くらいで、ほとんどが1回限りの登場となる「珍しい演題」である。


岩手県二戸市





(掲載写真へコメント)

 1枚目は盛岡観光協会昭和59年、四条畷の流行を生んだ秀作である。ややSD体型だが表情が凛々しくて、着物の配色も爽やかである。長く人形山車を見てきた層からも、いまだに根強い高評価を得ている一台だ。四条畷は構図の簡素さゆえに、ケレン味なく武者人形を味わえる演題であり、例えば2枚目の日詰下組(一戸橋中組作)はそのようなニーズに応えた逸品といえそうである。兜の作りにも鎧の配色にも実に品がある。3枚目は石鳥谷の中組が案出した四条畷の見返し「小楠公の母」で、その手に菊水紋の入った短刀が握られている。自害しようとする正行から短刀を取り上げたイメージであろう。4枚目は石鳥谷中組昭和61年、私の知る最も躍動的な脚色の四条畷である。5枚目は、二戸祭り初訪問の平成11年に私を最も感動させた一台、いわゆる平三山車である。盛岡での1体演題を二戸では3体に拡張、矢を払う刀の先に折れた矢を取り付け、兜も低く構えて鬼気迫る正行を表現した。6枚目も二戸祭りの平三山車だが、正行が本陣に肉薄する様子がよく表現され、兜には何本も矢が刺さっている。



文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
楠木正行四条畷 盛岡観光協会(本項1枚目)
沼宮内愛宕組
石鳥谷中組(本項4枚目)
日詰橋本組
日詰下組(本校2枚目)
盛岡一番組
志和町山車@A
岩手川口み組@A
盛岡南大通二丁目
一戸上町組
日詰橋本組
石鳥谷中組

二戸市役所(本項5枚目)
花巻市吹張一区
二戸愛宕山車(本項6枚目)
盛岡一番組

盛岡二番組
一戸西法寺組@(盛岡川原町?)
一戸西法寺組A
岩手川口上町組
岩手川口み組
沼宮内大町組

平下信一さんの作品数例
青森県弘前市
青森県青森市

盛岡一番組@A(富沢A)
日詰橋本組(富沢A)
盛岡南大通二丁目(富沢A)
岩手川口み組(富沢B:色刷)
一戸上町組(富沢A)
石鳥谷中組(手拭)

(以下、写真)
盛岡二番組
盛岡川原町
一戸西法寺組(富沢B)
一戸橋中組(富沢B)

ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)


四条畷(しじょうなわて)の 大軍攻めて 忠と孝との 華と散る
六万の敵 正行
(まさつら)激戦 四条畷に 力尽き
花は桜木
(さくらぎ) 四条の畷 咲くも散るるも 山桜
国の乱れに 楠木
(くすのき)親子 帝(みかど)守りて 名を残す
先は正成
(まさしげ) いま正行が 帝に仕えし 親子獅子
つらき別れの 桜井
(さくらい)の宿(しゅく) 散るは泪(なみだ)か はた露か
父の遺訓
(いくん)に 正行奮起 四条畷の 華と散る
四条畷に 菊水
(きくすい)なびく 誉れ楠木 旗印
ひらめく菊水 矢の雨受けて 乾坤一擲
(けんこん いってき) 突き進む
大将正行 覚悟の戦 四条畷に 名を残す
敵は師直
(もろのお) 首級(みしるし)ねらい 迫る本陣 見えにけり
四条畷を 血汐
(ちしお)に染めて 鬼神(きしん)も泣かす 小楠公(しょうなんこう)
雲と群がる 賊軍受けて 散るや義勇の 若桜
若き鬼神の 正行最期
(さいご) 四条畷に 名を残す




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