四条畷 楠木正行
「太平記」など南北朝の軍記を取り上げた盛岡山車の演題は、後醍醐天皇方(南朝方)で戦った武将が圧倒的に多い。平成3年にNHK大河ドラマ「太平記」が足利尊氏を主役に放送されたが、このときも山車にされたのは『楠木正成』や『新田義貞』であり、尊氏の山車はついに出なかった。山車人形の南朝贔屓は、青森のねぶたや博多の祇園山笠でも同様だったようである。 南北朝ものの盛岡山車で最も製作例が多く、かつ、ほかの地域では殆ど眼にできないものに、楠木正行(くすのき まさつら)の四条畷(しじょうなわて)の合戦がある。正行といえば、決戦を前に如意輪堂に辞世を残す話が有名だが、盛岡山車が描くのはこの場面ではない。 (他地域の楠木正行の山車) 有名どころでは、千葉県の「佐原の曳き山」に矢を手にして辞世を残す正行の人形を乗せたものがある。風流山車では、やや精彩に欠ける為か辞世の場面はほとんど山車になっていない。筆者が見ている正行の山車は青森ねぶた、弘前ねぷた、土崎曳き山(秋田)、花巻山車(岩手)、平三山車(岩手)…で、いずれも兜を片手にした鎧姿である。青森ねぶたには、正行が纏を立てて矢を防ぐという伝統的な構図があるが、なぜ纏なのかは不明である。重ねて登場しているのは二戸の平三山車くらいで、ほとんどが1回限りの登場となる「珍しい演題」といえる。 (掲載写真コメント) 1枚目は、四条畷の流行を呼んだ盛岡観光協会の秀作である。ややSD体型だが表情が凛々しく、着物の配色も爽やかである。長く人形山車を見てきた層から、いまだに根強い高評価を得ている一台だ。2枚目は石鳥谷の正行、筆者の知るうち最も躍動的な脚色による一台である。3枚目は、二戸祭り初訪問の年、筆者を最も感動させた一台。盛岡での1体の演題を二戸では3体に拡張、矢を払う刀の先に折れた矢を取り付け、兜も低く構えて鬼気迫る正行を表現した。 盛岡一番組@A(富沢) ※すべて同じ絵柄 盛岡二番組

桜井の駅で父、「楠木正成」と涙の訣別をした小楠公(しょうなんこう)楠木正行は、やがて立派な若武者に成長し、父の遺訓を守って後醍醐天皇に最後まで尽くし、足利の大軍を四條畷に迎え撃つ。如意輪堂の壁に矢で「帰らじと かねて思えば 梓弓(あずさゆみ)…」と辞世を遺した正行は、高師直(こう の もろなお)率いる敵軍が射掛ける大量の矢玉を、脱いだ兜を盾にして防ぎながら、猛然と敵軍に立ち向かった。兜の前立ては三本角で、菊水の紋の入った父の形見である。満身創痍の正行は、最後の最後まで敵に向かう事をやめなかった。
四条畷の正行は、盛岡山車一体ものの武者では最もよく出てくる演題のひとつで、戦烏帽子・鎧姿の若武者が、片手に兜を構え前方に突き出し、もう一方で刀を振り上げ、敵陣に駆けて行く様子を描いている。鎧の所々に矢を刺し、四条畷の合戦がいかに激戦であったか、正行がいかに奮戦したかを観客の脳裏に鮮やかに描き出す。中には、松から何本も矢を吊って、戦の激しさを表現した作品もあった。人形の傍らには、矢を防ぐための木の盾を大道具に付ける。
戦前に盛岡の二番組、戦後間もなく盛岡の川原町が作ったが、以降長らく途絶えていた。昭和59年に盛岡観光協会が製作すると、以後異常なまでの流行を見せ、急激に製作例が増えて1体武者ものの定番となった。戦烏帽子が無く整えた長髪であったり(石鳥谷町中組)、烏帽子無しの鉢巻のみという作品もあった(日詰橋本組)。特に、盛岡古参山車組の一つ、馬町第3分団一番組が2度手がけ、得意演題としている。
『四条畷』のほかに、『風流 楠木正行』、また特に一戸町においては『風流 小楠公』として製作されている。 石鳥谷の古い時期の山車には、下に紹介するような如意輪堂の場面を飾ったものもあったらしい。
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文責・写真:山屋 賢一
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楠木正行四条畷
盛岡観光協会(本項)
沼宮内愛宕組
石鳥谷中組(本項)
日詰橋本組
日詰下組
盛岡一番組
志和町山車@
岩手川口み組
志和町山車A
二戸市役所(本項)
花巻市吹張一区 盛岡一番組
盛岡二番組
一戸西法寺組@(盛岡川原町?)
一戸西法寺組A
岩手川口み組
平下信一さんの作品数例
青森県弘前市
青森県青森市
日詰橋本組(富沢)
岩手川口み組(富沢:色刷)
盛岡川原町
花は桜木(さくらぎ) 四条の畷 咲くも散るるも 山桜
四条畷を 血汐(ちしお)に染めて 鬼神(きしん)も泣かす 小楠公
四条畷の 大軍攻めて 忠と孝との 華と散る
若き鬼神の 正行最期 四条畷に 名を残す
先は正成 いま正行が 帝(みかど)に仕えし 親子獅子
父の遺訓に 正行奮起 四条畷の 華と散る