新田義貞
新田義貞(にった よしさだ)は足利尊氏・楠木正成らと倒幕軍をおこし、鎌倉幕府を滅ぼした人物である。その後、後醍醐天皇による建武新政(けんむの しんせい)が成ったが、天皇が公家を武家より重んじたため数年で崩壊、足利尊氏(あしかが たかうじ)は天皇を廃し、新たな武家政権(のちに室町幕府となる)を作ろうとする。義貞・正成らは天皇を守るため尊氏と戦ったが、武運拙く敗れた。
(他地域の新田義貞) 「鎌倉攻め」とタイトルがつきがちな稲村ヶ崎の場面は、竜神を召喚する幻想的な構想で再現されたこともあった(主に青森県の作品)。八戸山車では海に投げ入れる刀を船並の大きさに作り、山車の真ん中に豪快に飾る趣向も見られた。一方で、従者が傍らにひざまずき、義貞が刀を両手でささげている定型は、県内・東北・遠く北九州にまで共有されているモチーフである。他地域で目にすると、心なしかほっとさせられる。二戸の平三山車や秋田の土崎曳山など、人形のポーズが決まっているタイプの人形山車で、やや製作機会が少ない。藤島の戦いは青森の野辺地町で一度山車になったことがあり、人形が見えづらいほど大量の矢を射掛けて義貞の最期を劇的に描いていた。この作品と、二戸の平下さんの山車の他は、藤島を場面取りした人形山車は無い。 (掲載写真コメント) 1枚目は、盛岡観光協会借り上げ時代の沼宮内愛宕組、夜間パレードを撮影したものである。当時の盛岡の山車人形にはこのように風格のあるものが多く、従者の顔さえ凛々しい。筆者が新田義貞を見るときの、ひとつの規範がこの作品である。2枚目は、大通り商店街を練り歩く盛岡わ組の山車。この作品に限り、城西組より新田町か組の色のほうが濃いように思う。味のある独特の仕上がり、従者を粗く造ったため義貞人形の見栄えが際立った。3枚目は、沼宮内の大町組の山車のうち、一番の秀作といわれているもので、現在も製作作業場に義貞の兜が大切に飾られている。馬はこの作品で初製作、長身の人形がバランスよく配置され、どこから見ても無駄がなく、かっこいい山車であった。

この一連の戦いを、「南北朝争乱(なんぼくちょう そうらん)」とよぶ。盛岡山車の武者演題は大きく「源平もの」「南北朝もの」「戦国もの」の3系統に分かれるが、このうち南北朝ものは、他の地域であまり力点の置かれない盛岡山車ならではの演題群である。
北条の悪政に愛国の志も高く反乱の兵を挙げた新田義貞は、稲村ヶ崎(いなむらがさき)にて満潮の海に行く手をさえぎられてしまう。兜を脱ぎ、腰の玉造の太刀を頭上にかざした義貞は、天に向かって「海を鎮めたまえ」と祈り、太刀を海へ投げいれた。時に海神(わだつみ)は義貞の義に感じたか、潮はみるみる引き、これを好機と義貞軍は一路鎌倉に攻め込んで、幕府を滅ぼした。
まさに、日本の歴史が大きく動いた瞬間であった。一説には、幼少の砌(みぎり)より天文に通じていた義貞が潮の引く頃合をはじめからわかった上で「神懸り」を演出したとも謂われる。

かざす太刀の位置が制作上の最大のポイントであり、下手に作ると顔を真一文字に遮ってしまうので、胸の位置に捧げるか、あるいははるか頭上に捧げるかで作るのがよい。
ほとんどの作品が義貞を棒立ちに表現しているが、一度、前に踏み出すような躍動的な形に工夫されたことがある。棒立ちの義貞が松を突き抜けて高く上がるという、からくりを使った山車もあった。
義貞には必ず髭が生えていて、従者には生えていない。従者が付かないタイプは意外に少なく、太刀を捧げる義貞の人形1体を高い位置に据え、下部に荒れ狂う波を描いた浄法寺の山車は、かなり異色の作品といえる。他地域では「義貞鎌倉攻め」と題が付くことが多いが、盛岡周辺は一貫して『新田義貞』か『稲村ヶ崎』である。

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文責・写真:山屋 賢一
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| 新田義貞稲村ヶ崎 | 盛岡観光協会・沼宮内愛宕組(本項) 盛岡わ組(本項) 岩手川口み組 志和町山車@ 志和町山車A 花巻市 青森県八戸市 |
日詰橋本組 盛岡本組 盛岡一番組 浄法寺上組 一戸本組(見返し) 青森県八戸市2例 青森県青森市 北九州山笠2例 |
盛岡観光協会(香代子:色刷) ※すべて同じ絵柄 盛岡一番組(国広) |
| 新田義貞藤島合戦 | 沼宮内大町組(本項) | 盛岡と組(富沢) 沼宮内大町組(香代子) |