盛岡山車の演題【風流 新田義貞】
 

新田義貞

 



「稲村ヶ崎」沼宮内愛宕組昭和62年(借上期)

 新田義貞(にった よしさだ)は足利尊氏・楠木正成らと倒幕軍をおこし、鎌倉幕府を滅ぼした人物である。その後、後醍醐天皇による建武新政(けんむの しんせい)が成ったが、天皇が公家を武家より重んじたため数年で崩壊、足利尊氏(あしかが たかうじ)は天皇を廃し、新たな武家政権を作ろうとする(のちの室町幕府)。義貞や正成は後醍醐帝を守るため尊氏と戦ったが、武運拙く敗れた。
 この一連の戦いを「南北朝争乱(なんぼくちょう そうらん)」とよぶ。盛岡山車の武者演題は大きく「源平もの」「南北朝もの(太平記もの)」「戦国もの」の3系統に分かれるが、このうち南北朝ものは、他の地域であまり力点の置かれない盛岡山車ならではの演題群である。

 北条の悪政に愛国の志も高く反乱の兵を挙げた新田義貞は、六波羅探題を落とした足利高氏に呼応して北条の本拠鎌倉に攻め込もうとした。ところが陸路三方は敵の守りが堅く、稲村ヶ崎(いなむらがさき)では満潮の海が行く手を遮っている。兜を脱ぎ、腰の黄金造の太刀を両手に押し頂いた義貞は、天に向かって静かに祈りを捧げる。「我が君後醍醐帝は竜神の生まれ変わり。竜神今もし天にましまさば、世を正さんと起った義貞の苦衷を哀れみ一時の間、稲村ヶ崎の潮を引かせたまえ」太刀を海へ投げいれると、竜神に思いが通じたか潮はみるみる引いて、鎌倉へ向かう一筋の干潟ができた。これを好機と義貞軍は一路早暁の鎌倉に駆け込み、幕府を滅ぼしたのである。
 日本の歴史が大きく動いた瞬間の、奇跡の場面である。一説には、幼少の砌(みぎり)より天文に通じていた義貞が潮の引く頃合をはじめからわかった上で「神懸り」を演出し、味方の士気を奮い立たせたのだともいう。


 

「稲村ヶ崎」盛岡市前潟町わ組平成7年

 従者を伴って刀を両手にささげる侍烏帽子の義貞の山車は、盛岡周辺で割りと古くから作られていたようである。戦後間もない頃の番付には「逆(逆臣、逆族の意)を討つ」と音頭に読み込まれ、戦前皇国史観の面影を垣間見ることができる。
 かざす刀の位置が製作上最大のポイントで、下手に作ると顔を真一文字に遮って山車が台無しになる。胸の位置にささげるか、あるいははるか頭上にささげる姿で作るのがよい。
 ほとんどが義貞を棒立ちに表現しているため、なかなか躍動感は生まれない。昭和30年代の盛岡で前に踏み出すような躍動的な体勢が工夫されたことがあり、写真を見る限りだが非常に効果的に見える。棒立ちなのを逆手にとって、義貞が松を突き抜けて高く上がるという仕掛けも試みられた。近年この仕掛けは、電動リフトを使って復刻されている。
 義貞には必ず髭が生えていて、家来には生えていない。家来の体勢は様々だが、自身は兜を着けたまま義貞の兜を預かりもう一方で旗を支えている構図が一番おさまりが良いようだ。従者が付かないタイプは意外に少ないが、浄法寺では太刀を捧げる髭の無い義貞の人形1体を高い位置に据えて下部に荒れ狂う波を描いた。宝剣は鞘に入った状態でかざされるのが普通だが、戦前の絵紙には抜き身の刀を捧げる構図も見られる。他地域では「義貞鎌倉攻め」と題が付くことが多いが、盛岡周辺は一貫して『新田義貞』か『稲村ヶ崎』である。

「藤島」沼宮内大町組平成12年

 新田義貞の最期は不運であった。一時「反逆者」足利尊氏を京から敗走させ天下一の武勇を誇った義貞だが、楠木正成や北畠顕家らが相次いで戦死すると次第に孤軍奮闘の様相となり、再起を図って北陸に逃れた。この北陸でやっと勢力を盛り返した矢先、流れ矢に当たって命を落とすのである。絶命の地は藤島、田の間を縫う細い畦道を行軍していた義貞は敵の不意打ちに遭って落馬し、泥田のぬかるみに足を取られたところで矢を射掛けられた。
 この場面を美化した武者絵が「国史画帖大和櫻」に所収されており、構図を写した義貞の山車を盛岡中野のと組が出した。と組は珍しい武者演題を好む組で、馬は騎馬としてではなく、矢を受けて悲鳴を上げるという独特の役割で使われた。大変躍動的な踊るような格好の義貞が両手に太刀を振るい、背後に愛馬を守って矢を防いでいる。
 額を射られて目が見えなくなった義貞は死を覚悟し、自分の刀で自分の首を切り落とし土中深く埋めた。余りに突然の死で誰もその亡骸を義貞であるとにわかには信じず、体内に後醍醐帝の勅書が見つかりようやく義貞だと確認されたのだという。「犬死」とも揶揄された義貞の最期だが、この山車ではいかにも劇的に、無念の思いありありと描かれていて見事である。
 平成に入って沼宮内の大町組が同じ構図の義貞を製作し、大変な好評を得た。


(他地域の新田義貞)

 「鎌倉攻め」とタイトルがつきがちな稲村ヶ崎の場面は、竜神を召喚する幻想的な構想で再現されたこともあった(主に青森県の山車やねぶた)。八戸山車では海に投げ入れる刀を船並の大きさに作って山車の真ん中に豪快に飾る趣向も見られたし、現れた龍神に義貞が合掌している構図もあった。一方で、従者が傍らにひざまずき義貞が刀を両手でささげている定型は、県内・東北・遠く北九州にまで共有されているモチーフで、他地域で目にするとほっとさせられる。二戸の平三山車や秋田の土崎曳山など人形のポーズが決まっているタイプの人形山車で、やや製作機会が少ない。藤島の場面は青森の野辺地町で一度山車になったことがあり、人形が見えづらいほど大量の矢を射掛けて義貞の最期を劇的に描いていた。この作品と二戸の平三山車の他は、藤島を場面取りした人形山車は無い。




(掲載写真へコメント)

 1枚目は盛岡観光協会借り上げ時代の沼宮内愛宕組昭和62年、同年9月の盛岡八幡宮祭典で上がった趣向をそのまま上げた山車である。当時の盛岡の山車人形はこのように風格のあるものが多く、義貞はもとより家来の顔さえ凛々しい。新田義貞の山車を見るとき私がひとつの基準としている逸品である。2枚目は盛岡市前潟わ組平成7年、山車大通り商店街を練り歩く姿。この年に限り城西組でなく新田町か組に製作を依頼したといい、見返しは同組十八番の「胡蝶」か「道成寺」だったと思う。ずんぐりした独特の仕上がりで義貞の顔も立派だが、従者が粗すぎる。しかしながらこの粗さが主役を引き立てている、といえなくもない。3枚目は沼宮内大町組平成12年、自作以降一番の秀作と久しく語られたものである。馬はこの作品で初製作、長身の人形とのバランスが良く配置もよく吟味され、どこから見ても無駄の無いかっこいい山車であった。現在も製作作業場にこの時の兜が大切に飾られている。

 
(ページ内公開)

川口み組  盛岡一番組




文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
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新田義貞
稲村ヶ崎
盛岡観光協会・沼宮内愛宕組(本項)
盛岡わ組(本項)
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志和町山車@A
盛岡一番組

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青森県八戸市
日詰橋本組

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盛岡一番組(国広)
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藤島合戦
沼宮内大町組(本項) 盛岡と組(富沢)
沼宮内大町組(香代子)
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(音頭)


世にも名高き 新田義貞 太刀を捨つるも 君のため
新田義貞 稲村ヶ崎の 怒涛
(なみ)を鎮めて 逆を討つ
足利源氏 おさえてならぶ 新田義貞 あげる旗
新田義貞 伝家
(でんか)の宝刀(ほうとう) 捧げ奉(まつ)らん 荒海に
古来
(こらい)伝わる 稲村ヶ崎の 怒涛も鎮まる 御代(みよ)となる
新田義貞 稲村ヶ崎 剣
(つるぎ)(とう)ぜし 古戦場(こせんじょう)
稲村ヶ崎に 投ぜし剣 いざや鎌倉 汐開く




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