盛岡山車の演題【風流 森蘭丸】
 

森蘭丸(本能寺の変)

 



 

紫波町日詰一番組平成4年

 戦国時代に毛利家の外交を担っていた怪僧 安国寺恵稽(あんこくじ えけい)は、安土に天守閣を築いて日の出の勢いの織田信長(おだ のぶなが)を指して「いずれ高転びに遭う」と不吉な予言を口にした。その言の通り、天下統一まであと一歩のところまで来た信長は、裏切るはずのない家臣の裏切りで失意の最期を迎える。日本史上最も有名なクーデター 本能寺の変(ほんのうじのへん)である。
 信長の腹心明智光秀(あけち みつひで)は、羽柴秀吉応援のため備中高松に出陣する道すがら、「敵は本能寺にあり」と宣言し突如として馬首を返した。その胸中は今以て謎に包まれているが、ある者は積年の怨みの故といい、またある者は、信長のあまりに革新的な政見への危惧故という。いずれ光秀は1582年6月2日早暁、1万5千の兵で主君信長の寝床を取り囲んだ。宿泊していた信長主従総勢わずか100名、家来たちは寝巻き姿に襷をかけて懸命に主を守って戦う。勝ち目の無いところを最後まで戦い抜いた家来たちは後世「忠義の鑑」と称えられ、中でも小姓の森蘭丸(もり らんまる)の奮戦が有名になった。
 蘭丸は長柄の槍を脇に抱え、優男の風貌に似合わぬ武勇で明智の雑兵を次々に突き殺し、信長の首を挙げようと意気込む明智の猛将安田作兵衛(やすだ さくべえ)と欄干をはさんで激戦を繰り広げた。この一騎討ちの有り様こそ盛岡山車の「本能寺」であり、花の若武者の散り行くさまに風流山車の儚さを重ね、そこに一抹の美を見出す。
 作兵衛がやっとのことで蘭丸を討ち取ったとき、奥から火の手が上がり本能寺を焼き尽くした。焼け跡をいくら探しても信長の首は遂に上がらなかったが、クーデターに成功した光秀は中国大返しで秀吉が畿内に引き返すまでの十数日間、「三日天下」のはかない夢に酔うのであった。

「信長版」日詰下組昭和61年

盛岡市油町二番組平成12年

 盛岡山車『森蘭丸』は、『川中島』『加藤清正』と並んで戦国武者の数少ない定番演題であり、明治の背の高い山車の時代から高低差をよく生かす演題として珍重されてきた。信長にとってはきわめて不吉な裏切り横死の場面だが、「太閤記」の一場面と捉えれば秀吉の天下取りを約する好転機の一景であるし、いずれにしろ日本の歴史が大きく動いた劇的な名場面であることに変わりはない。山車の構想にあたって「国史画帖大和桜」に題を求めた為、信長よりも蘭丸にスポットが当たった華やかで美しい構図となった。

石鳥谷上若連平成26年

 舞台づくりは盆の上を軒下に見立て、一段高い位置に欄干を作るところから始まる。擬宝珠の付いた欄干は蘭丸が身を乗り出す足場となり、朱塗りにすれば華やかに人目を引くし、白木のままで使えば上品な淡い色調の山車に仕上げることができる。軒を省いて欄干だけを柵のように作る例もあったが、この演し物の眼目である高低差が出ないので、あまり効果を上げない。背景は寺院の壁面で、障子は禅寺特有の蓮のような形に切る(花頭窓)。昭和の作品のいくつかでは上部に織田木瓜の陣幕を張ったが、平成以降の作品には見られなくなった。壁面に仕立てず唐獅子の屏風を立てて代用した山車もあった。
 蘭丸は若武者をあらわす前髪を残した髪型で凛とした雰囲気を醸し、寝巻き姿は裸人形の技法で躍動的に表現する。盛岡観光協会は白地に空色の染めの入った寝巻き姿で爽やかな印象に仕上げたが、最近の作品では寝巻き姿よりもう少し実戦向きの着物姿とする例が多いようである。下の武者は完全武装できらびやかに、欄干の上と下で明確な高低差・温度差を設け、両者の目線をきっちり通して動きのある構図とする。下の武者の顔を見せるために体を正面に向ける作法が一時試みられたこともあるが、近年は後ろ向きにして目線通しを優先することが多い。こちらの方が断然見栄えがする。
 場面全体を見事に二分するのは長柄の槍。盛岡山車には「三本通し」とよばれる技法があり、これは一本の槍で2つの人形をつなぐという大変難しい組み方であるが、『森蘭丸』では蘭丸の2本の手と作兵衛の片手の3点を槍で貫く。たしかにこの難関を見事にクリアーすれば、なんとも格好の良い山車となる。

 蘭丸の山車人形は盛岡の一番組・同じく二番組が長年得意としてきた飾り物で、周辺域にも伝播して一戸・沼宮内などで秀作が見られた。特に一戸で昭和30年代後半に出た一作は、槍の角度が非常にきつく欄干の曲がり角も大きく前に突き出ており、勇ましい演出となっている。

岩手町川口井組平成23年

 一戸の橋中組は、槍を繰り出す人形を蘭丸から寝巻き姿の信長に置き換えた。これこそまさに「ひと目でわかる本能寺」であり、丁髷姿の殿様が登場する盛岡山車唯一の演題ともなった。川口では寝間着の片袖を脱いだわらわ髪の信長を飾り、荒々しい独特の雰囲気で本能寺の変を描いている。
 本能寺の後日談として、山崎の合戦で秀吉に敗れ小栗須(おぐるす)の竹薮で落ち武者狩りに遭う光秀の末路を描いた山車が二戸まつりに出ているほか、明智方の猛将を採り上げた『白藤彦七郎の馬投げ』『明智光春の湖水渡り』、秀吉と黒田官兵衛が明智討伐にひた走る『中国大返し』なども非常に寡例であるが構想されている。対応する見返しは現時点では確認出来ていないが、あからさまな祝いの趣向や滑稽な見返しと組むと、少々興醒めであると個人的には感じている。




(他地域の本能寺の山車)

野田村:左が森蘭丸

 本能寺の変は日本史上有数の劇的な場面であり、歴史物語を題材とする人形山車祭りには欠かせないエピソードのひとつである。私が見ているだけで、岩手では花巻・二戸、青森で三戸・八戸・青森・弘前・黒石・木造、秋田の土崎、宮城の栗駒、山形の新庄…と東北六県ほぼ全域で製作されている。ただしこの中で、信長を伴わず蘭丸を主役に使った構想はあまり多くない。必ず寝巻き姿の信長と燃え盛る炎によって殺伐と表現されるのが、本能寺の山車の常であるようだ。

花巻市:右から2人目が森蘭丸

 青森ねぶたでは信長単体を炎の盛りの中に置いた本能寺の構想が秀作として広く知られており、背の高さで有名な五所川原では上段に信長・下段に蘭丸を配した絶妙な構図で作っている。秋田土崎曳山では作兵衛を主役・蘭丸は太刀筋の受け手として表現されたことがあった。明智光秀の受難の最期を模す山車人形は秋田県によく見られ、私は土崎と浅舞で見物している。これも有名な戦国逸話のひとつとして採り上げられたものであろう。




青森県八戸市:下段真ん中の白装束が森蘭丸

(本項掲載写真について) (1枚目)紫波町日詰一番組平成4年、盛岡観光協会から借り上げた森蘭丸である。地元の山車なので、学校に通う道すがらカケスに納まった姿をよく見たが、遠くから見た時の藤の花と浴衣の空色とのコントラストのここちよさをよく覚えている。幼い顔立ちは森蘭丸にピッタリだが、盛岡で雨の降る中ビニールの下から近距離で覗いた時は、目の輝きや顔の照りが反響して恐ろしいくらいの必死な形相に見えたものである。(2枚目)紫波町日詰下組昭和61年、一戸橋中組借り上げの『風流 本能寺の変』。私にとって初めての本能寺の山車、ゆえに以降の山車の基準作となっている。丁髷・寝間着姿の殿様が鎧武者に下から刺されるという、子ども心に非常にインパクトのある構図であった。一戸の橋中組はこのスタイルで3度取り組み、いずれも潰しの鎧武者は槍を両手で持たせ三本通しは行っていない。音頭には詩吟を踏まえ、明智光秀が「本能寺の堀はどのくらい深いか」と従者に尋ねる件などを歌詞に取っている。(3枚目)盛岡市油町二番組平成12年、文句なしの躍動美と非常に存在感のあるつぶし武者に圧倒された。この山車に乗っている作兵衛の人形が、あらゆるつぶし人形の中でもっとも出来がよいと今でも思っている。欄干は白木の色にし、桜もこの年から芯を染めたものに変えて全体に淡く上品な色調に仕上げた。(4枚目)川口井組平成23年、演題名は『本能寺の変』。井組はこの年、祭典近くになって隣の組との演題重複が判明したため、急遽森蘭丸からこのような構想へ転換したらしい。盛岡山車としてはかなり異色の、荒々しい本能寺となった。片肌の仕上げは非常に美しく、観衆の間でその製法が話題になった。

『明智光秀』九戸村伊保内

(5枚目)東日本大震災の年、甚大な被害を受けた野田村では山車運行が危ぶまれたが、二戸から無償での山車提供があり、無事1台の山車運行を行うことが出来た。この時の見返しは表と同程度のスケールで豪華に飾られ、蘭丸と武者との距離感が充分に取られたために非常に見事な出来映えであった。欄干が尽きた右端には杉の木が飾られ、寺院の雰囲気を醸した。一般的な平三山車では見返しに森蘭丸を上げる場合、下の武者は付けず、1体飾りとする。(6枚目)岩手県花巻市、花巻まつりの山車。右から2人目が森蘭丸である。やはり優しい雰囲気ではあるが、中央の信長が刀を抜いたり戻したりするからくりが面白かった。(7枚目)青森県八戸市、下段真ん中の白装束が森蘭丸。八戸の山車は人形をたくさん使い、飾り方にも盛岡山車のような定型は残っていない。そこでこの山車のように「炎の赤」と「矢羽根の白」を非常に効果的に使った本能寺も登場しうるのである。(8枚目)岩手県九戸村、平三山車の『明智光秀』。本能寺の変の後十数日で、明智光秀が山崎合戦に敗れ落ち武者狩りの竹槍で絶命する場面で、二戸では平三山車のみならず盛岡流の手作り組もたびたび手がけている。盛岡流の組は光秀を馬上とする例が多い。



文責・写真:山屋 賢一


(ホームページ公開写真)

沼宮内 川口 石鳥谷 盛岡 沼宮内

日詰(信長) 日詰(白藤)

二戸@ 二戸A 青森木造 青森五所川原




山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
森蘭丸 盛岡観光協会・日詰一番組(本項1枚目)
盛岡二番組(本項3枚目)
志和町山車
沼宮内愛宕組
川口み組
石鳥谷上若連(本項4枚目)
盛岡観光協会
沼宮内新町組

平三山車数件(本項6枚目が野田)
秋田県秋田市
青森県五所川原市
(カラー写真)
盛岡左官業組合
盛岡一番組
石鳥谷中組
沼宮内新町組
川口み組

(白黒写真)
盛岡一番組@A
盛岡二番組
盛岡ゑ組
一戸上町組
一戸西法寺組
一戸上町組・浄法寺上組

盛岡十三日町

(新聞記事)
石鳥谷下組

青森県弘前市
(現物)
盛岡観光協会・川口み組(香代子:色刷)
盛岡二番組(正雄:色刷)
盛岡左官業組合(白黒)
盛岡観光協会(圭)
沼宮内新町組(手拭)@A
志和町山車(手拭)
石鳥谷上若連(手拭)

(写真)
富沢茂氏押し絵
盛岡二番組
盛岡一番組@A
盛岡十三日町
信長 一戸橋中組・日詰下組(本項2枚目)
一戸橋中組
川口井組(本項5枚目)

花巻市吹張二区(本項7枚目)
二戸市福岡在八
宮城県旧栗駒町
山形県新庄市
青森県三戸町
青森県八戸市(本項8枚目)
青森県黒石市
青森県旧木造町
一戸橋中組 一戸橋中組
明智光秀
九戸村南田(本項9枚目)

秋田県平鹿町
二戸市福岡五日町
二戸市福岡川又@A

平下信一さんの山車数例
白藤彦七郎 盛岡城西組・日詰橋本組 盛岡城西組
ご希望の方は sutekinaomaturi@outlook.comへ

(音頭)


時は天正(てんしょう) 十年(ととせ)の六月(なかば) 恨みは深き 本能寺
天正十年 最後の大義
(たいぎ) 主君(しゅくん)守りて 花となる
雲か霞
(かすみ)か 五月の空に なびく桔梗(ききょう)の 旗の数
燃ゆる焔
(ほのお)に 欄(おばしま)高く 名乗り上げては しごく槍
叛乱
(はんらん)明智の 先鋒(せんぽう)迎え 槍で射止めし 森蘭丸
主君守ると 長槍つかみ 謀叛
(むほん)明智を 迎え撃つ
水色桔梗の 謀叛をうけて 花と散りゆく 若雄鶴
(わかおづる)
忠の花かや 蘭丸が 散りて儚
(はかな)き 本能寺
「主君守りし」 覚悟をむねに 蘭丸忠義の 亀鑑
(かがみ)なり
若き鬼神
(きしん)の 蘭丸 天正事変の 花と散る

(※本能寺の変 信長)
奇しき(くしき)さだめよ 信長公は 恨み尽きせぬ 本能寺
天下を狙う 信長不覚 燃ゆる炎と 共に果つ
天正十年 明智の謀反
(むほん) 炎と散りゆく 信長公
溝は幾尺
(いくしゃく) 欄干高し 大事は今ぞ 本能寺
墨の黒さか 謀反の影か 妖雲包めり 明智勢
紅蓮
(ぐれん)の炎 怨みに燃えて 繰り出す刃 玉と散る
安土の栄華 現
(うつつ)ぞ夢ぞ 恨み尽きせぬ 本能寺
揺れる松明 飛び交う矢音 名乗り上げたる 槍衾
(やりぶすま)
大望空しく 英雄去れど 青史(せいし)に顕き(あかき) 彼(か)の武勇





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