児島高徳
児島高徳(こじま たかのり)は、鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が建武の新政をはじめるあたりを題材とした軍記物語「太平記」の中に登場する、架空の武将である。一説には太平記の作者小島法師こそ、児島高徳その人ではないかといわれている。
山車には、蓑(みの)を纏って硯(すずり)と筆を手にした武将と、大きな桜木の幹を飾る。昔は村上義光など太平記ものの見返しに作られることが多かったが、盛岡のい組、青山組などが表の演題として使いはじめ、昭和50年代末ごろには紫波町日詰、岩手町沼宮内などで登場するようになった。平成に入ってからは、盛岡の一番組や紫波町上平沢の山車で表に飾られている。
高徳は、クーデター「元弘の変」に失敗して隠岐(おき)に島流しにされる途中の後醍醐(ごだいご)天皇を、護衛の兵から奪い返そうと一心に追いかけていた。無念にも多勢に無勢、ついに奪還を果たせなかった高徳は、雨の降りしきる或る夜更けに簑笠を纏って、天皇のいる院庄(いんのしょう)を訪ねた。
ここにも幾重にも囲みを作る護衛がいて、高徳を決して天皇に近づかせない。高徳は自分の非力に悔し涙を流しながら「せめてこの忠臣が一人お側に居ることを、囚われの帝にお伝えしたい。」と願い、一策を練る。懐に忍ばせていた短刀で庭の桜の幹を削り、「テンコウセン、ムナシウスルコトナカレ ノチニハンレイ、ナキニシモアラズ」と短い漢文を記した。「これなら、自分の思いは護衛の目をすり抜けて、帝の元に届くはず。」
幹を覗き見た護衛の兵たちは漢文を幾度か読み返すが、何の事やらさっぱり分からない。意図したとおり、ただ一人教養豊かな後醍醐天皇にだけ、高徳のメッセージが伝わるのである。
それは中国呉越の戦い、臥薪嘗胆を乗り越えて天下を取った越王コウセンの物語である。越王は実に20年に及ぶ苦節を忠臣ハンレイの支えで耐え続け、ついに宿敵の呉王を打ち破った。後醍醐天皇にもこのような忠臣がきっと現れるから、今は辛くとも決して諦めてはいけない。それは雌伏の難に居る天皇への、高徳の精一杯の想いであった。失意の淵にあった後醍醐天皇は忠臣の言葉に落涙し、忠臣児島高徳もまた、削った桜の木の陰に隠れて涙に咽ぶ。
後に後醍醐天皇が数々の忠臣の助けで建武中興をなしえたのは、この夜の出来事があったからかも知れない。
作品によって、高徳が正面を向いている場合と、木の幹を見ている場合とがある。 正面正視は後醍醐天皇への目線を意識したものだろう。定型は幹に近い方の手に硯、遠い方の手に筆を持つが、写真の志和町の山車のように逆に設定してみるのも面白い。桜の花もとりわけ豪快に、美しく飾られる。
他地域では青森ねぶたに出たくらいで、現在ではほとんど見られなくなってしまった。
文責・写真:山屋 賢一
志和町山車
昭和七年尊皇党山車絵紙
本項掲載:沼宮内ろ組S62(見返し)・志和町山車H23
提供できる写真 | 閲覧できる写真 | 絵紙 | |
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表の演題として | 紫波町志和町山車@A(本項) | 日詰橋本組・沼宮内大町組 日詰上組・川口み組 盛岡い組 盛岡一番組 志和町山車 |
紫波町志和町山車 盛岡い組(富沢) 尊皇党本部招魂社山車 盛岡青山組・盛岡一番組(富沢) |
見返しとして | 沼宮内ろ組(本項) | 二戸福岡川又 |
纏(まと)える蓑(みの)に わが身を包み 帝(みかど)を護りし 院の庄(いんのしょう)
御流(おんる)の旅の 君安かれ(きみ やすかれ)と 幹にとどめし 詩(うた)ひとつ
幹を削りて とどめし詩の 赤き心ぞ いみじけん
まとえる蓑にも 微衷(まこと)ぞ篭る 御跡(みあと)尋ねて 院の庄
桜の幹を 削りて書きし 墨の匂いぞ ゆかしけれ