盛岡山車の演題【風流 紀伊国屋文左衛門】
 

紀ノ国屋文左エ門

 



盛岡市城西組平成5年

 裸人形演題の多くは年々影を潜めているが、平成に入ってから急速に製作数を増やしているものもある。『紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)』は、珍しい「帆掛け船」を使った裸人形の山車で、平成5年の城西組(盛岡市中屋敷町)による製作をひとつの契機として、石鳥谷や一戸でもたびたび題に採られるようになった。

 元禄時代の豪商紀伊国屋文左衛門が、いかにして巨万の富を築いたかを語るエピソード。
 ある年の暮れ、江戸と紀州和歌山を結ぶ海路が大時化となり、正月の必需品である紀州蜜柑(みかん)が江戸に全く届かなくなった。しなびた蜜柑は品薄でどんどん値上がりしていき、貧しい町人たちは「このままでは正月を迎えられない」と口々に嘆いている。文左衛門は一念発起、町人たちの願いをかなえ且つ自らも大金を掴むべく、荒れ狂う遠州灘(えんしゅうなだ)へ「蜜柑船」を出すのであった。
 船はおおいに揺られ、文左衛門は覚悟の白装束に南無妙法蓮華経とお題目をしたため、髪を振り乱し首から下げた数珠を天に掲げて「わが商魂を護り給え」と祈る。
 …数日後、紀州から奇跡的に生還した文左衛門の蜜柑船によって大量の新鮮な蜜柑が江戸にもたらされた。江戸中がこれを喜んで蜜柑は飛ぶように売れ、このときの儲けで文左衛門は江戸一番の大問屋となり、屋号を紀州蜜柑から採って「紀伊国屋」と称したのである。誰にも出来ないことをやった文左衛門の類稀な勇気と機を見る敏、いわく「日の本にふたつとない商才」の賜物であった。

『大江戸みかん娘』石鳥谷町下組平成8年

 山車は、白装束に髪を乱し丸に「紀」の一字を染めた帆掛け船を引く文左衛門の一体飾りである。首からは数珠をかけ、船にはさまざまな意匠で山と積まれたみかんを表現する。
 製作例としては一戸の上町組が最も古いようで、盛岡ではわ組(当時は中屋敷町)が船頭と文左衛門の2体で作った。このときは掛け巣を八幡宮の境内に作り、白い帆を大きく作り高く上げて披露したらしい。私自身は一戸まつりで伸縮帆の仕掛けを見たが、広いところでは帆が高く上がり船を立派、理想的なバランスに演出していた。前述した城西組の作品は装束のみならず人形そのものも真っ白にして、天をにらむ文左衛門の目線だけを強烈な印象として残している。盛岡のの組は髪をざんばらにせず、手には数珠を持たせて拝み手の文左衛門に作った。蜜柑箱は時代考証に合わせた樽型とし、碇とともに船の前側に積んだ。
 対応する見返しとして、石鳥谷町の下組が『大江戸みかん娘』を飾った。文左衛門が持ち帰った蜜柑を店先で売る娘の姿であった。

石鳥谷下組平成8年

 裸人形演題全体が先細りつつある中で、紀文の山車だけが流行っている。従来好まれていた裸人形ものにはなく、この文左衛門の山車が備えているものは何か。
 裸人形の趣向というのは遠目で見るとどれも大差がない。たとえば『幡隋院長兵衛』と『湯上り為朝』と『丸橋忠弥(井戸端)』は互いに構図が似ていて、区別がつかないことが良くある。秋田の土崎の山車のように演題名を述べてはじめて「ああ、この人物はこの人をあらわしているのだな」と確認できる性質のものである。悪くいうと、変わり映えがしない。紀伊国屋文左衛門の名は高校の教科書に登場するとはいえ、一般にどれほど認知されているかはっきりは言えない。しかしながら文左衛門の山車を見てその由来を聞けば、「ああそうか」とかなり容易に納得できる。こじつけた印象も無く、大変にわかりやすい構図なのである。こういった面は、従来引き継がれてきた裸人形にはなかった。

伸びる帆(盛岡市の組平成25年)

 趣向が描く物語性について出す側が語ろうとしなかったし、見る側もあえて知ろうとしなかった。裸人形そのものが正義の味方であって、その上の理屈は必要とされなかった感がある。こうした裸人形の特質が、やがて物資に恵まれ木彫りの人形が希少とされる時代の中、忘れ去られるべき運命を招いてしまったのではないか。武者であっても歌舞伎であってもその描くところは明確で、一目で納得できる。変わり映えも、とくに歌舞伎の場合であれば十分に感じられる。裸人形演題の衰退は、単に物資の面だけではない。裸人形のもつ特質そのものが、いつのまにか山車を愛でるもの達の嗜好から取り残されていったのではないだろうか。
 一観客として裸人形の魅力を再確認するために何が出来るか、見る側の技量が問われる時代の到来を感じる。




(他地域の『紀伊国屋文左衛門』の山車)
 紀伊国屋文左衛門の山車は盛岡山車以外ではほとんど見当たらないが、八戸山車にて大船にたくさん人形を乗せ、時化に洗われる喧騒のありさまを情感豊かに描いた作品がたびたび出ているようである。岩手県内では、北上の黒沢尻火防祭に一度出たことがある。

文責・写真:山屋 賢一


(ホームページ公開写真)

日詰   一戸


本項掲載:盛岡市城西組H5・石鳥谷下組『大江戸みかん娘』H8・石鳥谷下組H8・盛岡市の組H25


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(音頭)

肝の太さと 度胸のよさよ 豪商(ごうしょう)文左の 紀伊国屋
江戸の豪商 文左衛門が 歌に残した 蜜柑船
(みかんぶね)
今年は豊年 八坂の祭り 山車は度胸の 紀伊国屋
天と海とを 白帆
(しらほ)にかけて 紀伊国文左(きのくに ぶんざ)の 男意気
沖の暗闇 白帆が見える あれは紀の国 蜜柑船
沖に見ゆるは 紀伊国文左 丸に紀の字の 蜜柑船
海の男が 命をかけて 荒潮わけて めざす江戸
海に高らか 白帆を上げて 遠州灘
(えんしゅうなだ)を 江戸目指す
怒涛
(どとう)の熊野 遠州灘を 越えた舳先(へさき)に 紀伊国屋
怒涛逆巻く 嵐の中に 目指すお江戸は 日本晴れ
惚れた仕事に 命をかけて 花の文左の 蜜柑船




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