盛岡山車の演題【風流 甕割り柴田】
 

瓶割り柴田

 



浄法寺仲の組平成16年

 柴田家は織田家に代々仕える家老の家柄で、柴田勝家(しばた かついえ)は織田信長に若いころから仕えた。織田の勢力が今川・齋藤・浅井らを蹴散らし全国展開の様相を見せると、勝家は羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益ら新興気鋭の家臣団の只中に在って織田家譜代の一定の存在感を放ち、北陸ではかの上杉謙信とも刃を交えている。本能寺の変の後は信長後継を巡って秀吉と争い、賤ヶ岳(しずがたけ)で敗れお市の方(おいちのかた:信長の妹)とともに自決した。
 かめ割り柴田(表記は「甕割り」と「瓶割り」の2通り)の逸話は、勝家が籠城戦において水攻めを受けた際の、機転・窮状克服・家臣鼓舞の武勇伝である。敵に水源を絶たれたと知った城兵たちが絶望し、戦意を失い怒号を上げる中、勝家は城に残った水瓶をすべて一つ所に集め、城兵を一堂に会した。「ここに在る水が全部だから、飽くまで飲め」という。さすがに蓄えの水すべてを一時に飲めるはずもなく、水を湛えた大瓶がいくつか残った。勝家は槍の石突きでこれらをすべて突き割り、残りの水を余さず城の板目に吸わせてしまう。「水に渇して死ぬか、敵に向かって死ぬか」勝家は、ぐずぐずと城に残る愚かさを態を持って示したのである。兵らはもはや討って出る他に道は無いと覚悟を決め、死に物狂いで敵に攻めかかった。結果、劣勢を覆して見事に大敵を打ち破ることができたのである。

盛岡市青山組平成15年

 勝家に関わる唯一の逸話ともいえるこの場面を山車に採った始めは、一戸の上町組である。勝家は陣羽織姿で髷を結い、鉢巻を巻いて両手で槍を構えている。水瓶はその背丈に及ぶほどの大きさで後ろに据え、石突きが貫く下方が砕けて中から無数のしぶきが飛び出ている。平成に入ってからも、この様相を最大限生かした瓶割り柴田が一戸まつりに再登場した。
 昭和期は専ら一戸での製作例のみで、平成に入ってから、盛岡の青山組が手掛けた。青山組の瓶割り柴田は、上記の一戸での作例をほぼ踏まえていない独自の発案である。陣羽織は着ていても髪はざんばらで、安倍貞任など既存の武者演題から構想したように見える。瓶は腰の辺りまでの高さであり(史実を踏まえるとこれが適当)、あふれ出る水は水色のビニールで表現するなど現代風・個性的な演出であった。10年くらい経って、岩手町や石鳥谷でもこれに沿った作例が出た。これらでは瓶は砕かず、石突きの位置から両脇に滝波を垂らしている。

石鳥谷上和町組平成27年

 槍を両手に構えてしまう・仁王立ちである等、躍動美を出そうとすると障害の多い演題ではある。この点、青森ねぶたや新庄山車・福井の三国祭りなど他地域の作例を見ても、改善のヒントは見当たらない。熊や蟹に喩えられる荒々しい勝家の風貌が再現できれば、他とは一味違う飾り物になりそうな気はする。勝家の山車の作例としては瓶割りの他、北ノ庄城の別れ(青森県三戸町)・出陣桶狭間(秋田県角館町)・手取川の戦(秋田県角館町)がある。
 関連する見返しとして、一戸の上町組・石鳥谷の上和町組が勝家の妻 お市を上げた。



文責・写真:山屋 賢一



(ホームページ公開写真)

川口 



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
風流 かめ割り柴田 盛岡青山組(本項2枚目)
一戸上町組・浄法寺仲の組(本項1枚目)
川口井組
石鳥谷上和町組(本項3枚目)

(二次資料)
葛巻町
一戸上町組 盛岡青山組(圭)
一戸上町組・浄法寺仲の組(国広)
石鳥谷上和町組(手拭)

一戸西法寺分団(国広)
見返し お市の方 一戸上町組
石鳥谷上和町組
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(音頭)

金の御幣(ごへい) に かりがね標(じるし)  武勇轟(とどろ) く 鬼柴田(おにしばた)
勝家
(かついえ)守りし 近江(おうみ) の城を 攻める六角(ろっかく)  水を絶つ
六角水攻め 逆手
(さかて) に取りて かめを打ち割る 鬼柴田
勝つも負けるも 家主
(やぬし)の戦 かめの割りにて 勝ちを獲る
士卒の怒鳴
(どめい)  ものともせずに 奮起を誘う かめ砕き
競う驕将の 鬼柴田 利なきさとりて 甕水を破る
かめを砕きて 六角倒す 勝家武勲
(ぶくん) の 長光寺(ちょうこうじ)
柴田勝家 戦国の世に 水がめ割りて 勝ち戦








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