盛岡山車の演題【景清もの】
 

景清もの(景清・解脱・錣引)

 



紫波町日詰一番組平成14年

 平家の侍大将の中で最も剛勇に優れていたのは、悪七兵衛(あくしちびょうえ)の異名を持つ平景清(たいらのかげきよ:一説に「藤原景清」)であった。悪七兵衛の「悪」は、「悪い」のではなく「強い」の意味である。景清はまた、壇ノ浦で平家一党が滅亡した後の只一人の生き残りでもあり、源氏の世にあって最後まで平家再興を目指し、何度も頼朝暗殺を企てた不屈の武者である。一応「源氏の傍流」という事になっている徳川家が治世を敷いていた近世、庶民文学に現れる平家の景清は下々の政権批判の象徴であり、まさに憂さ晴らしの存在であった。
 景清は平家の再興を諦めた時、自ら両目をえぐってその執着を絶ったという。ここから、景清は「目の神」であるとも云われている。能や神楽では、盲目となった景清が源平合戦のさまを荒々しく語る筋書きが一般的で、なかでも「錣引き(しころびき)」という逸話が景清一世一代の晴れ舞台であるが、これはひとまず置いて、盛岡山車の景清を紹介したい。

「牢やぶり花道下がり」石鳥谷上若連昭和61年

1、牢やぶり
 歌舞伎では、源氏に生け捕りにされ獄中で食を絶って自決した景清の逸話から、「牢破り」の筋を考案している。一般に盛岡山車では断りを付けずにただ『景清』として山車を出す場合、牢破りの場面取りとすることがほとんどである。初演時の題は「大銀杏繁栄景清(おおいちょう さかえのかげきよ)」といって、この題を反映した音頭も見られた。
 平家が遺したとされる宝物のありかを探るため、源氏方は捕らえた景清に拷問を繰り返すが、景清もさるもの、一向に口を割らない。あせった末兵が景清の馴染みの女郎「阿古屋太夫(あこや たゆう)を牢屋の前に引き出して折檻すると、景清は卑怯な手段に怒って牢破りをする。或いはここまで混み入った筋書きでなく、牢番に嘲笑された景清が丸腰で牢を破って、平家の意地を知らしめるという筋もある。敗者の意地こそ、景清ものの根底に流れるメッセージである。
 「南無観世音(なむ、かんぜおん)」と一息唱えて土牢を蹴破った景清が、角格子(かくごうし)を振りかざして暴れまわる荒事(あらごと)の山車である。今のところ特に定型は無く、とりあえず牢屋の格子を抱えて何らかの見得を切っている場面を、組ごとに奔放に作っている。盛岡観光協会の作品以来、格子を諸手で掲げる姿がやや一般化したきらいはある。

紫波町日詰橋本組平成16年

 衣装の配色もさまざまだが、平成10年あたりから深い緑色を基調とする色彩が盛岡市内で一般化、これとは別に白を基調とした景清もほうぼうで出ている。化粧は半隈という上半分が赤・下半分が青の隈取りで、とりわけ観客の目を引く青隈取は牢につながれていた景清の疲弊をあらわしている。鞠を頭に乗せたような髪型も迫力があり、景清の鬘作りには相当高い技術を要するらしい。大抵は1体の山車だが、桜の枝を持った牢番がつく2体飾りもある。
 ちなみに戦前期には、歌舞伎仕立てではなく裸人形の演題として、景清牢破りの山車が出ていたようだ。

【他地域】ねぶた(青森・大湊)。歌舞伎風のものと、伝説を活かした浴衣姿のものがある。秋田の角館飾山にも2体飾りで景清の牢破りが出た。


(ホームページ公開写真)

盛岡青山組  一戸西法寺組  沼宮内大町組
南部火消し伝統保存会  青森県青森市

本項掲載:日詰一番組(盛岡観光協会借上)H14・石鳥谷上若連S61・日詰橋本組(盛岡城西組・南大通二丁目借上)H16



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
1体 石鳥谷上若連(本項)
盛岡観光協会・日詰一番組(本項)
石鳥谷中組
盛岡南大通二丁目・日詰橋本組(本項)
一戸西法寺組
滝沢山車祭
石鳥谷西組
土沢中下組
沼宮内大町組
盛岡城西組

盛岡城西組
盛岡観光協会
石鳥谷中組
一戸西法寺組
滝沢山車祭
沼宮内大町組
2体 盛岡青山組

盛岡わ組
盛岡青山組(富沢)

盛岡わ組(富沢)
裸人形
秋田県秋田市(本項)
盛岡新穀町寺ノ下 盛岡新穀町寺ノ下
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(音頭)

悪の偉名(いみょう)と 男の意気を 恋に捧げた 牢やぶり
近松
(ちかまつ)名題の 景清語り 後の代までの 武勇伝
悪と名乗るも 善には強く 忠義二つの かげ清き
(けた)を担いで 荒事見せて 大銀杏(おおいちょう)栄えの 景清が
握る格子に 平家の恨み 憎き源氏に 牙を剥く
牢を蹴破り 悪七兵衛 勇みし有様
(ありさま) 鬼神かや
出世景清 娘の発願
(ほつがん) 霊験(れいげん)活かす 物語り
剛勇景清 阿古屋
(あこや)の琴に 憎き悲しや 角格子(かくごうし)
堅き囚(ひとや)を 破るはもろき 恩と愛とに ひかされて
あらぶる景清 大立ち回り 二代目成田屋 歌舞伎見得
景清怒れば 牢さえ破る 阿古屋いとしや ままならぬ
妻と娘の 奏でる琴に 荒れて狂うや 景清が
筋隈墨隈
(すじぐま すみぐま) 睨みをきかせ かぶく成田屋 四代目
剛毅すぐれし 景清いまに 見得切る花の 牢やぶり




『鐘入解脱衣』石鳥谷上若連平成8年

2、解脱(釣鐘の景清)
 たいていの作品は『釣鐘の景清』と題が付いている。歌舞伎上演時の正式名称『鐘入解脱衣(かねいり げだつのきぬ)』、『解脱(げだつ)景清』、単に『景清』と題が付いたこともあった。なぜ景清が釣鐘に絡んでいるかについては奉納組によって諸説あり、そもそもの歌舞伎原題を探ってみても判然としない(上演のたびごとに解釈し直されるような印象がある)。説教節に語られる「景清が清水寺に忍び込んで源頼朝を討とうとした」エピソードに基づくものであろうか。

 平家の怨霊が清水寺に取り憑いて、鐘が鳴らなくなってしまった。畠山重忠が釣鐘に「小松内府(清盛の嫡男 平重盛)の息女の小袖」をかけると、衣の下から景清の亡霊が現れる。平家嫡流の息女が出家遁世したというので、平家再興の望みは全く絶えてしまった。復讐の怨念に燃えていた景清も遂に諦め、俗世の一切の煩悩から逃れて解脱する。
 解脱とは、仏の悟りを開くことである。解脱に至る景清の心情が喜びなのか悲しみなのか悔しさなのか、そのあたりがちょっとわからない。そのため私は未だ、釣鐘の景清に込められた本来の意味を理解できないでいる。「自分を騙した女郎を鐘に閉じ込めて暴れている姿」ということで、鐘を抱えた姿を作った作品もあり、また鐘の上の景清が反戦・世界平和を呼びかけているというような現代的な解釈を加えた作品もあった。それだけ構図が先行しエピソードが置き去りになっている演題、ということだろうか。

 定型は、景清の怨霊が引き倒した鐘の上で小袖を纏って見得を切っている一体飾りである。釣鐘弁慶は鐘を引き摺りはするが乗ったりはしないので、この演題でしかこのような体勢は見られない。古くは盛岡のい組が張子の大釣鐘の上に人形を乗せ、奇抜さで話題を呼んだのだという。はじめは横向きに寝かせた大鐘の上に景清を乗せたので人形の位置が高くなったが、次第に竜頭(りゅうず:鐘の吊手)の部分を下げて鐘を斜めに取り付けスペースを稼ぎ、一般的な1体の演題とほぼ同じ位置に景清人形を据えられるようになった。い組は戦前戦後含め3回製作、他に石鳥谷町でも試行錯誤の末の名作がいくつか生まれた。

「立釣鐘乗り」盛岡市盛山会さ組平成9年

 平成に入ってからは盛岡のさ組が3度釣鐘の景清を作り、3度とも注目を浴びている。中でも、横倒しが常であった釣鐘を立て、通常の山車人形の高さに十分に達した釣鐘の上に景清人形を乗せた「戦後一番の高さ」の景清は圧巻であった。定型を守りつつも白を基調に斬新な色使いで衣装を仕立てた第一作は一戸祭りでも模倣され、釣鐘の上で立ったり座ったりする前代未聞の奇抜な趣向を見せた第三作は、広く見物客のブログ等に写真入りで紹介された。最も印象深い作品だと多くの観客が思った証であろう。この時の着物の柄は黒地に銀糸で北斗七星を刺繍したもので、舞台では景清が鐘に上がるとこの衣装に変わる。同様の構図に取り組んだ組もあり、竜頭を手前に倒して鐘の存在感を強調したり鱗紋の着物を鐘全体にかけたりと多々工夫が見られたが、いずれもさ組ほどの奇抜さは出せていない。

「抱え鐘」一戸町橋中組平成15年

 同じく盛岡の城西組は「釣鐘を肩に担ぐ」という奇抜な構想を見事に山車の枠にはめた。釣鐘の頭の部分を立ち岩に貼り付けて、背後にある大きな釣鐘を観客の想像にゆだねる発想であった。衣装のデザインも現行で演じられる歌舞伎をよく参照し、茶色のどてらに悪七兵衛の「悪」を刺繍している。数年後に一戸の橋中組がこれを倣って製作を試みたが、こちらは釣鐘をまるごと作って、抱え上げずに引きずるような姿勢に作ったものである。釣鐘の緒の部分を太く強調し、構図にアクセントを加えた。
 牢破りの景清に比べて隈の青い筋が少しだけ増えているが、これはこの場面の景清が亡霊怨霊である事を示しているのだろうか。

【他地域】他地域ではほとんど出てこないが、山形の新庄で昭和後期によく作られた。大鐘の上で、卒塔婆を引き抜いた景清を暴れさせるのが定例であったようである。大湊ねぶた(青森県むつ市)では道成寺との折衷を意識した三角鱗紋の着物で「解脱景清」を構想している。角館の飾山に一度、城西組の構図そっくりの釣鐘景清が出たことがある。


(ホームページ公開写真)

石鳥谷上若連  十日市山車  日詰橋本組
盛岡わ組  沼宮内の組  盛岡城西組



本項掲載:石鳥谷上若連H8・盛岡市さ組H9・一戸町橋中組H15



山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
定型 石鳥谷上若連@(本項)
沼宮内愛宕組
石鳥谷上若連A
石鳥谷中組
盛岡さ組

盛岡い組@
盛岡い組A
一戸西法寺組
沼宮内新町組
盛岡山車推進会(富沢)
盛岡さ組
石鳥谷上若連

一戸西法寺組(国広)

盛岡い組@
盛岡い組A(国広)
盛岡い組B(国広)
富沢押絵番付
立鐘乗 盛岡さ組@(本項)
紫波町十日市
盛岡さ組A
沼宮内の組
盛岡城西組
山形新庄
福岡博多
盛岡さ組@
盛岡さ組A
盛岡城西組
鐘引 盛岡城西組
一戸橋中組(本項)
盛岡わ組
秋田角館 盛岡城西組
一戸橋中組
盛岡わ組
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(音頭)

腕の力に 名を得し勇士 またも大鐘 引き止める
平家供養の 鐘の音あわれ 景清うつつ 清水寺
(しみずでら)
鐘にうらみは 数々あれど 鬼の景清 解脱(げだつ)する
(あら)ぶる景清 薄衣(うすぎぬ)被く(かづく) ゆかりの鐘に 歌舞伎見得
鐘を跨ぎし 荒若武者は 剛勇無双 歌舞伎見得
滅びし平家の 供養を説いて 印
(いん)を結びて 鐘につく
歌舞伎荒事 景清解脱 成田屋十八番の 不動見得
(ふどう みえ)
平家の宝刀 痣丸
(あざまる)失せて 邪淫(じゃいん)に堕ちにし 景清が
鐘に封印 煩悩
(ぼんのう)解脱 景清祈念の 国の夢
煩悩解脱を 会得
(えとく)のいまに 阿古屋(あこや)救える 鐘悲し
放埓
(ほうらつ)景清 阿古屋を封じ 煩悩断ち切る 鍵と成す
放埓景清 解脱のしるし 祓いし煩悩 鐘にとり
由縁
(ゆかり)の小袖 景清被き 平家供養の 鐘をきく




「壇ノ浦の景清」沼宮内愛宕組平成18年

3、錣引(壇ノ浦景清)
 景清の錣引は正しくは屋島合戦での逸話だが、能などでは舞台を壇ノ浦に設定しており、山車でも『壇ノ浦 景清錣引』と題をつけたようである。
 平家一門は源義経の度重なる奇襲戦法に敗れ、ついに本州の端、下関壇ノ浦まで追い詰められていた。ここで敗れれば平家は海の藻屑と消えてしまう。平家方はどうしても義経一人を葬って、戦局を打開する必要があった。そこで平教経(たいらの のりつね)は、平家一番の猛者、悪七兵衛景清を呼び寄せて、義経を討つように命じる。景清は大薙刀(おお なぎなた)を抱え、壇ノ浦の浜縁を駆け巡って義経を探し回り、遂にこれぞという武将の姿を認めて勝負を持ちかけた。その武将は義経ではなく、坂東武者の三保の屋(みおのや)であったのだが、三保の屋は逃げるところを呼び止められた恥をすすごうと景清の勝負を受けて、激しい一騎打ちとなる。戦況不利と見た三保の屋は隙を見て逃れようとするが、景清はその兜の後ろの”しころ”をがっちりと掴んで離さない。両者”しころ”をはさんでの引き合いとなり、ついには頑丈に作られているはずのしころが引きちぎれてしまう。両者互いに倒れこみ、向き直って互いの強さを誉めあう。「景清どのの、腕の骨こそ強かりき。」「三保の屋どのの、首の骨こそ強かりき。」。

神楽の『錣引』:右が景清(青森県八戸市)

 盛岡八幡宮山車資料館の壁面に貼られている戦前の鉈屋町の絵紙が、景清伝説の代表ともいえるこの場面の山車の唯一の製作例である。それ以来、少なくとも盛岡市内では全く取り組まれていない。沼宮内愛宕組の『悪七兵衛景清』(平成18年および大正初期)も錣引の一場面と思われるが、薙刀を持っているだけで兜は掴んでいなかった。大薙刀はその人物が景清であることを連想させるための重要な小道具で、愛宕組では戦前にも、大薙刀を諸手でかざした景清の山車を出している。

他地域】秋田の角館では、同じ年に歌舞伎風・武者風2通りの解釈で出たことがある。ねぶたでは下北の大湊で引きちぎれた兜の紐まで表現した人形ねぶたが出たのと、八戸の鮫神楽で武者もの演目として演じられたのを見た。


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
錣引 盛岡め組 盛岡め組
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本項掲載:沼宮内愛宕組H18(悪七兵衛景清)・青森県八戸市白銀四頭権現神楽(壇の浦錣引)・久慈市上組H22・秋田県秋田市土崎H25

(音頭)

三保(みお)のしころを 普門(ふもん)の力 引くや景清 壇ノ浦

悪七兵衛 大太刀佩いて 忍ぶ奥山 東大寺
たいらの重鎮 景清勇み 悪七兵衛の 名を残す

 

岩手県久慈市

【写真抄】
(1枚目:日詰一番組平成14年)盛岡観光協会から借りた前年人形を飾った日詰の山車。写真では、人形に対して山車全体の飾りが大きすぎるように見えるが、実物からは人形の大きさが感じられた記憶がある。この趣向は評判がよく、一戸町・滝沢村・東和町など県内各地でこれを真似た桁を担いだ景清が作られた。日詰でこの人形を飾ったときも、周囲の評判が大変よかった。撮影地点は、山屋自宅のある日詰寺小路である。(2枚目:石鳥谷上若連昭和61年)私が初めて見た景清の山車で、以降はこういう構図を見たことがない。沼宮内に感化される前の上若連の山車であるが、かなり技術の高いところが伺える。景清の色具合は、これが一番正解に近いと思う。顔もりりしく、とりわけ黒と淡い緑の対比が華やかだ。(3枚目:日詰橋本組平成16年)借り上げ山車の宿命か、同じ趣向が3年を置かず出てしまうことがよくあった。12年に釣鐘・14年に上記の牢破り・15年に釣鐘・16年に本作…とこの時期の日詰まつりは景清ばかりの山車祭りになってしまった感がある。橋本組は盛岡城西組借り上げで、格子に抱きついたこの型は城西組考案のものである。片足が格子に乗っているのが素晴らしい。城西組自身の初出は平成10年で、もう少しきつい表情・動作はやや下向きであった。この山車は南大通り貸し出し時のリニューアル人形を乗せていて、構えや顔の塗りが少しおとなしくなった感がある。(4枚目:石鳥谷上若連平成8年)定型を上手にこなした一つ。胴の反り返りが綺麗に出ていて、衣を掴む手の形は巻き込んだように工夫されている。背景の桜花晩鐘の図が立体の桜とうまく調和した色彩も見事である。石鳥谷ではほかに、中組が釣鐘景清を出しており、着物をかぶる動作が強調され、鐘は半分に切って盆に沈めてしまっていた。(5枚目:盛岡市盛山会さ組平成9年)さ組はこの山車から「上手な組」といわれるようになった…と思う。今まで誰もやらなかったことを十分な技術でやって見せた、これは満場一致の「すごい山車」であった。改善点もあったが、2回目の鐘乗りのときにすべて克服して絵紙通りの北斗七星柄のどてらを着せた。釣鐘景清を語る上で、さ組の話題は欠かせない。(6枚目:一戸町橋中組平成15年)平成に入って歌舞伎に挑戦し始めた一戸橋中組の一作。盛岡の城西組の絵紙をそのまま再現しているが、結局鐘が上に上がらなかったのが個人的には残念。武者が主流の県北にあってはかなり華やかに見えたはずで、鐘の出来栄えも評判がよかった。鬘にも苦心したようで、ちゃんと見えるよう頭の後ろに白い化粧台を掲げている。(7枚目:沼宮内愛宕組平成18年)謂れをほとんど聞かないでしまったのだが、角館で出た壇ノ浦の景清の姿に似ている。景清と暫は愛宕組の得意演題であり、見慣れない装束であってもきちんと安定感があって、かつ沼宮内らしい勢いもある。

秋田県秋田市

(8枚目)青森県八戸市白銀の三島神社祭典にて、錣引きの場面を神楽で演じていた。もともと神楽や能には「屋島」という演目があって、この中の謡に錣引きが語られているところを、八戸では特に具現化して舞っているとのこと。(9枚目)八戸流の山車としては珍しく、景清を採り上げた作品。背景の起き上がりに素襖を大きく広げて飾り、下には音頭上げによく登場する女郎の阿古屋太夫を作った。歌舞伎の筋書きに合わせ、3種の琴も添えられている。観音様は景清が信仰していた仏様で、観音様とその眷属の仏たちが、景清の荒事を応援するように舞台各所にちりばめられている。以降数年、この趣向に使われた人形を引き継いで『七つ面』などが作られた。(10枚目)荒々しい裸人形が特徴の、秋田土崎湊曳山祭りの一台。戦前の盛岡で出た裸人形スタイルの牢破りをイメージしつつ見ていただければ幸い(盛岡の場合は、浴衣は着せる)。



※南部流風流山車(盛岡山車)行事全事例へ

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