盛岡山車の演題【風流 船弁慶】【風流 大物浦】
 

船弁慶

 



知盛怨霊1体(日詰下組平27年)

 源義経が兄頼朝に厭(いと)われ都落ちにいたる際、当初は九州にて兵団を整え鎌倉に攻め上るとの目算があったのだが、西上の途で大嵐に遭い手勢のほとんどを失ったため、果たせなかった。義経遭難の地を大物浦(だいもつのうら)といい、この時の嵐の有様については或る怪談が語られている。
 というのも、義経を襲った大嵐とは、実は壇ノ浦合戦で敗れた平家一門の祟りであり、荒れ狂う海原に何百と平家武者の亡霊が現れ船を翻弄したのだという。とりわけ凄まじかったのは、碇担ぎの壮絶な最期を遂げた平知盛(たいらの とももり)の怨霊であった。義経はたじろがず抜刀し応戦の構えを見せたが、傍らの弁慶は数珠を揉んで一心に祈り、霊達の心を安んじることに努めた。
 通じたのはおそらく弁慶の祈りの方であろう、やがて嵐は止み、平家武者達は逆巻く波の向こうへ消えていったという。

日詰上組平成10年

 船弁慶(ふなべんけい)と呼ばれるこの逸話は青森の八戸や山形の新庄で古くから山車に採られ、舞台いっぱいに荒波を凝らす迫力ある出来映えであることが多い。盛岡山車エリアでは昭和30年代、一戸で『知盛の亡霊』という山車が出ているが、これはむしろ八戸型の趣向で、本格的な採題は平成元年の盛岡城西組による。勧進帳そのままの山伏姿の弁慶を船に乗せ、首から大きな数珠を下げて祈る形にした。続く一戸本組・日詰上組の作もおおむねこの形に添い、1体の飾りとしている。
 一戸の橋中組は「船弁慶」と題しながら舞台に弁慶を乗せず、能風の白装束で薙刀を抱えた知盛と、転覆する船を飾った。顔には青の隈取りが入り、髪はわらわでツノが生え、このツノは兜の鍬形の形になっている。一戸では船にかかった片足を見せたが、貸出先の日詰では知盛を高く据えて足下は袴に隠し、亡霊感を増した。知盛・弁慶の2体の趣向も出たがこちらには船が無く、物語性を維持しつつの山車化はなかなか難しい題のようである。



平家無念を 宿(やど)すは海か 大物の浦 波荒(すさ)

狂う波濤
(はとう)の 遥(はる)かに見ゆる 鬼神(きしん)知盛 其の姿





文責・写真:山屋 賢一



   本項掲示:日詰下組平成27年・日詰上組平成10年




山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
船弁慶(弁慶) 一戸本組
日詰上組(本項)
盛岡城西組 盛岡城西組
船弁慶(知盛) 一戸橋中組・日詰下組(本項) 一戸橋中組
船弁慶(複数) 石鳥谷上若連 一戸本組 石鳥谷上若連(手拭)
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(音頭)

(みやこ)を捨てて 波越え西へ とが無きこころ 神に懸け
夢も栄華も 波間に消えて さだめ悲しき 出会いかな
青の筋隈
(すじぐま) 睨みをきかす 平知盛 大怨霊(だいおんりょう)
碇もろとも 失
(う)せたる夢を 大物浦(だいもつうら)に 果たさせ賜(たま)
海に沈めし 無念の想い かざす薙刀
(なぎなた) 大物浦に
怨霊知盛 薙刀抱え 義経主従を 逃
(のが)すまじ
神懸契
(かみかけ ちぎり) 変わりも無きに 祈るは主君(きみ)の 千代の無事
祈る弁慶 仏の加護
(かご)か 波に消え去る 平家武者



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