盛岡山車の演題【風流 日吉丸】
 

日吉丸

 



「日吉丸」盛岡市城西組昭和62年

 日吉丸(ひよしまる)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の幼名で、彼が百姓出から天下人に成り上がったのは有名な話である。
 日吉丸は尾張中村(おわり なかむら)の百姓の子で、若い頃から様々に生業(なりわい)を変え諸国を回っていた。時は戦国の世、陰に陽に活躍していた侍の中には、主を定めず傭兵となり、時には盗賊となって略奪を欲しいままにする「野武士(のぶし)」達がいた。蜂須賀小六(はちすか ころく)は、このような野武士の頭領である。或る夜、小六が矢作川(やはぎがわ)に掛かる橋を子分達と渡っていた時、橋の上で寝ていた子供の頭を誤って蹴飛ばしてしまった。すると手にしていた槍に手応えがあり、振り返ってみれば、蹴られた子供が槍の端を握って離さない。「無礼な奴だ、謝れ」と強面の野武士達に真っ向から刃向かってくる、痩せて小柄な、猿のような顔をした子供。小六の偉いところは、なめてかからずその胆力を見込み、その子供に謝ったところだ。「家来にしてやる」と持ちかけた小六に、子供は「家来は嫌だ、友なら良い」と応えて付いていった。これこそ百姓の子日吉丸が、まがりなりにも武士の仲間に入った瞬間である。
 蜂須賀小六は後によく秀吉を支え、時に秀吉に苦言を呈する数少ない良臣となった。

 日吉丸の山車が最後に出たのは昭和62年の盛岡祭りで、私は唯一ここで実物を見ている。日吉丸は白塗りの子供の人形で空色の浴衣姿、柄は後に秀吉の馬印となる瓢箪である。小六は鎧の上に毛皮を着ていて、顔に髭を生やしている。舞台に橋が造られ、背景に夜空と月が描いてあった。写真で入手したのは4台分、盛岡油町の山車が2台と一戸・沼宮内1台ずつである。過半に『森蘭丸』や『幡隋院長兵衛』に使われる三本通しの技法が見られ、小六の両手と日吉丸の片手が一本の槍の上に置かれている。一戸の一作は日吉丸が座って腕をまくったような格好、小六が日吉丸を向いて「あっ」と片手を槍から離している。絵紙は4種、いずれも二次資料として入手した。沼宮内新町組の絵柄が、小六のリアクションを容れている。
 五条の橋と似た構成要素で取り組める演題だが、逸話が忘れられつつあるためか、平成に入っての製作例が皆無で惜しい。他系統では日吉丸の作り物というのをほとんど見たことがない(山形の新庄で1件)ので、これは盛岡の稀少な演題といえる。

「秀吉」石鳥谷上和町組平成8年

 秀吉を出す演題には他に、盛岡のと組が「盛岡初登場の演し物」と銘打った『木下藤吉郎の初陣(富士川の功名)』、二戸の川又がよく上げる『小牧山(こまきやま)合戦』、黒田官兵衛と組んだ『中国大返し』、『九戸政実』の見返しに秀吉の鎧姿、大河ドラマが秀吉の年は石鳥谷で表に上がり、傍らに千成り瓢箪(せんなりひょうたん:秀吉の馬印)が掲げられた。秀吉の甲冑の中では最も派手な「馬藺(ばりん)の兜」を見事に再現している。



文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
風流 日吉丸 盛岡城西組(本項1枚目) 盛岡二番組@A
沼宮内新町組
一戸橋中組

盛岡城西組(富沢:色刷)
盛岡二番組
盛岡二番組(富沢)
沼宮内新町組(国広)
風流 藤吉郎初陣
(富士川の功名)
盛岡と組

二戸川又2件
二戸平三山車
盛岡と組
風流 秀吉 石鳥谷上和町組(本項2枚目)
一戸上町組見返し
風流 小牧山 二戸川又 二戸川又2件

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(音頭)

尾張愛知の 弥助(やすけ)が倅(せがれ) 神の授けの 日吉丸(ひよしまる)
一夜暮らしの 矢矧
(やはぎ)の橋で 主と従との 肝試し(きもだめし)
時の流れを ひらくは今と 野武士押さえる 日吉丸
槍の千段
(せんだん) 握って日吉 恐れ怯(ひる)まぬ 橋の上
男度胸を 矢矧の橋に かけし誉れの 日吉丸
夜盗
(やとう)恐れぬ 小僧の度肝(どきも) 見抜く小六も 身の出精(しゅっせい)
蜂須賀小六
(はちすか ころく)と 矢矧に出会い 歴史変えにし 日吉丸
槍の穂先も 蜂須賀小六 今に輝く 太閤記
(たいこうき)
(のち)の豊臣 矢矧の月に 橋を塒(ねぐら)の 日吉丸



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