青森県八戸市 八戸三社大祭
南部領内の山車の最盛期は明治期といわれている。いかに背の高い山車を作るかで豪華さを競い、10メートルやら20メートルやら、はるか遠方からも望めたという背高な山車の言い伝えが各地に残っている。 大正期に至って電気が普及すると、町に電線が張り巡らされて背高な山車の運行は不可能となった。背高な山車をいかに低くしていくか、このホームページに紹介している多彩な山車の形態のほとんどは、この難題と戦いながら誕生したものである。 青森県八戸市の夏祭り「八戸三社大祭(7/31〜8/4)」に登場する風流山車は「附祭(つけまつり)」と呼ばれ、往時の雄大な山車の姿を前後左右上下に開く仕掛け舞台とからくりの手法で現代に再現し、「日本一の山車祭り」として全国に喧伝されています。平成16年2月には、旧南部藩領の風流山車行事では初の「国重要無形文化財」に指定されました。各種資料によれば、「山車の変遷の過程が明らかであること」と「豪商から一般町人の祭りに変化したこと」の2点が評価の決め手となったそうです。 狭くて電線の多いところでは羽根を閉じ、電線のない広いところに行くと四方八方に開く八戸山車の変化の様は、観客に緩急のリズムを与えて場を大変盛り上げます。山車飾りのてっぺんが競りあがってくる一瞬、お囃子も、自分の周りの観客も、一番上に競りあがる人形に期待して呼吸を合わせていく…、この一体感がたまらなく心地よい。完全に開ききると、割れんばかりの拍手を浴びる山車。旧南部藩の山車では珍しく、拍手をもらいながら運行する山車です(一説に、拍手の量に応じて山車を開くから、みんなで頑張って拍手するらしい)。 ある年の八戸三社大祭で、『細川ガラシャ』を題材にした山車が出ました。ガラシャは信長に謀反を起こして横死した明智光秀の娘で、不遇な生涯を送った女性です。関ヶ原の戦い前夜、石田三成はガラシャを人質にとって細川忠興ら武断派の諸将を自軍に取り込もうとしますが、ガラシャはこれを拒んで死を選ぶ。山車には、まず燃え盛る戦場の有様があって、舞台の端に馬上の石田三成がいます。徐々に始まる競り上げ、まずはガラシャを守って立ちはだかる細川家の侍、舞台中央に向かって大粒の涙を流しながら槍を構える老臣、ガラシャはキリスト教徒なので自殺はできない、家臣に頼んで胸を槍で突かせ、命を絶つのです。主役のガラシャがステンドグラスを背景に、十字架に張られた姿で真ん中に現れました。最後の競り上げ部分は、ガラシャの四方に現れる天使…。悲しく儚く、しかし残酷でなく美しい表現に思わず涙が出ました。たとえばこういう感動が、現地に足を運んで初めて得られる「開く山車」の感動です。 八戸山車の人形の大きさは、生身の人間とだいたい同じくらいで、菊人形に用いるようなきりっとした顔のゴム人形(注:マネキン人形だが、山車に飾るために特別に作ったもの or 限りなくマネキン人形に近い手製人形かも)を使っており、その数20体を優に超える大規模な構想、高さ15メートル、幅10メートル、完全に開くとかなりの威容を見せてくれます。 反面、雄大さゆえに細部まで注意が回らないのか、妥協点が目に付きやすい作品も多く、いいかげんな飾り方が気になることもあります。京風人形の古風な格式を備える人形はほぼ皆無であり、また方向性としてもそれを目指したものではないため、伝統的な山車人形の風情に欠ける点は否めません(以下、さらに耳の痛いことを書きますので、読みたくない方は次の段落へ)。一台の山車の上に3つも4つも場面を取り上げるため、要素はしばしば混在し、主題が見えにくくなりがちです。そもそも開くことを前提に山車を構想しているために閉じた姿が醜く、構想も過度に広がり過ぎていて、主題に無理やりこじつけた神獣や仏神がひしめく舞台は「芸術家の山車」、製作者を除いて誰一人として理解できないきわめて一般性の低いものでもあります。私は八戸の山車を見に行くと、「足し算的な美しさでないところに本物の美しさがある」とほぼ毎回感じてしまいます。もちろんそれは製作者・発信者側の過剰すぎる歓迎心のあらわれであり、つまみに刺盛を出すべきところを、派手な船盛を何個も出すような港町の気前の良さでしょうが、それでもやはり八戸の山車が現在の型を共有してしまったのは不幸であったように思います。変わり映えのしない演題が多かったり、同じ年に複数の組が同じ演題を作ったり、題名が変わっても趣向にさほど変化が出てこなかったり、風流山車好きから見るともったいないような、惜しいような気持ちがあります。 「東北夏祭り制覇」などといって東北にやってくる一般観光客にとって、八戸の山車は大変見所が多く、馴染みやすく「すげー」と驚きやすい山車です。人形のほかに、発泡スチロールを器用に加工した華麗な彫刻(欄間など)も見ものです。場面を彩る花々は全てビニール製の造花で、特に何を飾らねばならない、というような定型は無いのですが、上部に競りあがる人形をより美しく演出するため、桜やもみじを半円状に編み上げた背景が良く使われます(「起き上がり」)。競りあがる様子を見ると、まるで山車ににわかに花々が咲き乱れたように見えます。 山車の趣向については、もともとは一般的な南部の山車の系譜を引くものですが、今日のような大型化のあと、『碁盤忠信』や『勧進帳』といった少人数で描くべき本式の歌舞伎の趣向が少なくなり、逆にパノラマ化して描くことのできる合戦絵巻物が主流となっています。
合戦物は大きく分けて陸戦を描く例と海戦を描く例があり、ともに源平合戦に題を求めたものが多く、前者では必ず白馬に乗った大鎧の義経が一番上に競りあがり、一方後者では舞台全体をマリンブルーに染めて波出し(裂いたカラ竹に銀紙を貼った波しぶきの表現)を多様、近年は源氏側よりか死に行く平家の猛将が最後に競りあがってきます。いずれもその合戦にまつわるさまざまな伝説をまとめて一つの舞台にちりばめたものであり、おのおのをじっくり見て楽しみたいものです。
大きな鬼の面をたくさん使った悪鬼羅刹退治物語も、八戸ならではのよく出る山車です。特に鬼が出てこないのではなかろうかという場面にまで、鬼が出てきます。竜も同じような無駄な出方をしますが、作り手の感覚を想像すると、たしかにやってしまいがちな気がします。鬼が主題として登場するのは『大江山』『羅生門』『紅葉狩』などで、いずれも歌舞伎風の夜叉のメイクをした鬼と武者とが舞台の端々で戦っている場面です。
歌舞伎ものでは『道成寺』がよく作られます。これは白拍子が見せる七変化の艶姿をすべて舞台に乗せ、最後に夜叉となって押し戻しと争う部分までを桜ベースで描きます。釣鐘や蛇体を多用することから、現在の八戸の山車デザインに合致しました。スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』はじめ、新作歌舞伎がよく採り上げられるのも、八戸山車の特徴です。ほかに、『連獅子』などの石橋もの、少し前では『和藤内のトラ退治』、『三人藤娘』などが作られています。『暫』や『矢の根』などは、他のこもごもの要素とごちゃ混ぜにして舞台に上がるケースがほとんどでした。
津軽方面の影響もあるのでしょうか、『西遊記』『三国志演義』など中国ものもちらほら見られます。京劇の演出を活かした作品もありました。
見返し部分には表側の趣向に対応する飾りが作られるのが普通ですが、八戸名物のえんぶり(郷土芸能)が作られることもあります。表側にも八戸三社大祭そのものを描くとして権現舞や太神楽を乗せたり、騎馬打鞠を乗せたりすることもありました。
ところで、現在のような大型化に至るまでは、八戸の山車は割と素朴なものでした。一番基本的な形が岩山車で、これは背景部分が中央に滝を配す岩山になっているというもの、盛岡山車でいう立ち岩を露出させた状態に近いものです。人形の数が少ない時は、高覧山車といって車の上に1層ないし2層の高覧と雪洞を飾り、人形1体を飾っていたようです。こういう飾り方をすると人形の細部にまで目が届きますから、きっとものすごく神経を使って人形を仕上げていたのでしょう。波山車は波の飾りを多用して海戦の様などを描くもので、近年特に八戸流の山車で発達したものです。同じように山車を大型化させる糧となったのが屋形山車で、建物を背景に作った山車、これは昭和40年代に類家山車組などが得意としたもので、仕掛け舞台の山車を作るきっかけになった形式です。八戸の山車が国指定になった際、パンフレットにはこの4種の山車が定型として紹介されましたが、現在の形を見る限り、一つとしてこのいずれかの形を作ろうとして構成された作品は見当たらず、いかに八戸の山車の変遷が激しいかをうかがわせてくれます。個人的には、右に挙げたようなすっきりとした屋形山車、純粋に精巧なジオラマとして完成しているケースに感動しますし、こういったものは日本中どこを探しても無いだろう、八戸でしか作れないだろうと思ってます。
(補記:八戸山車の原点回帰の動きについて)
近年貸出先不足・震災被害等の事情から費用に不足が出て、八戸山車を従来のような大型に仕立てず小さめに作ろうという動きが出てきた。もともと八戸共作連は起き上がりが一つだけの簡素な山車を一貫して出していたが、町中の長横町・八戸市職員互助会等が近年になって山車を簡素化し始めている。結果、昔やっていた自由運行に近い試みも可能になったようである。
この動きによって八戸山車に往事の風格や落ち着きが戻ったかというと、必ずしもそうではないのが難しいところだ。一方で装飾過剰な感は是正されず、他方で細部への気遣いは見られず粗い分は粗いまま踏襲されている。相変わらず熊手型の正面重視の人形配置であり、素材が透けて見える作り物が多い(例:堀が粗いまま何年も上がり続ける鯛・はや前夜祭にして柄が曲がり始めた発泡スチロールの柄杓等)。結局「開かないことが予測できない開かない山車」であり「なんだか小さい山車」でしかなく、「昔の山車はこうであった」と吹聴しながら引くには少々回帰具合が足りない。原点回帰のためにはまず、人形の数を減らし人形を作り込み、配置を吟味する必要があろうかと思う。
賞レースに新たに「伝統山車賞」が設けられ、六日町や下組町など辻褄の合った山車にこだわってきた団体が賞に輝いている。下にあげた桃太郎の山車もこの賞に輝いたもので、八戸山車が少しずつそういうセンスに近づいていくことを願う。
◎八戸三社大祭 お通り
毎年8月1日午後3時に八戸市庁前を出発する。神明社のお通りには雅楽の楽器を携えた稚児行列、新羅神社には武者行列、おがみ神社の行列には近年江戸期の山車人形・玄武のカサホコ・商宮律笹の葉踊りなどさまざまなものが復元され随行している。太神楽、虎舞、駒踊り、権現舞一斉歯うちといった郷土芸能が観衆を多いに涌かせる。山車は三日町通りをほぼ全開状態で運行した後裏通りに入り、自町内へ向けて運行する。行列が止まることはほとんど無い。3時過ぎに一番目の山車が出るが、最後尾の27番目の山車は大体5時半ごろに三日町に現れるので、大体3時間くらい絶え間ないお祭り行列が続くことになる。3日のお帰りも同様であり、2日の夜間運行は山車のみを抽出してパレードを行う。
◎八戸三社大祭 山車の自由運行
八戸三社大祭において、山車のほとんどは @合同運行の出発地点に集まるため A合同運行 B合同運行終着地点から自町内に帰るため の3つの場面しか運行しない。山車が大きいために狭い路地に入れないという事情もあり、また3日とも合同運行に長い時間を要するので、岩手県一戸町以南で主流の「山車が各々別々に町をめぐる」ような自由運行の風習は無い。祝儀返礼の音頭の作法・休み太鼓の作法は山車の運行中は全くといっていいほど披露されず、寄付集めは別働隊が行い店先などで音頭を上げる。音頭上げは盛岡や久慈と似た作法のもので、合いの手にえんぶりと同じように笛を入れるので、笛吹きが必ず別働隊に組み込まれている。祝儀返礼に掌の大きさの色紙を配るが、これに山車の演題を記したり構想図を印刷したり、各組で工夫をしているようだ。
◎八戸三社大祭 山車組27団体の印象・心に残る作品
文責・写真:山屋 賢一