大楠公
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が笠置山(かさぎやま)に篭もって討幕の有志を募っていたとき、神木の枝が南に伸びてその下に玉座(ぎょくざ:天皇の座る椅子)が現れる、という夢を見た。目を覚ました天皇は、木に南と書いて「楠」こそ此の戦の吉祥と考え、畿内に楠という名の武将はいないか訪ねて廻った。 最後まで帝に尽くした正成は「大楠公(だいなんこう)」と賞賛され、長く人々の同情と畏敬を受けることとなる。水戸光圀は楠木父子の生き様に甚く感銘して「大日本史」を記し、これを褒めちぎった(水戸学の始まり)。高村光雲が皇居に正成の騎馬像を作り、戦前の歴史教育は正成を日本一の忠臣として喧伝した。かつては日本人の誰もが正成の一代記を思い、胸を熱くしたのである。 侍烏帽子に陣羽織、主役の白面をつけて舞台に登場する正成。後醍醐天皇に誰よりも親身になって仕えてきた正成だが、その素性の卑しさに似合わぬ鮮やかな戦振りと明らかなる将器によって公家衆の妬みを買い、ろくな軍議もままならぬまま天皇の面目を守るための不合理な作戦を強いられ、足利尊氏の大軍を寡勢にて正面切って迎えねばならない瀬戸際に立たされた。もはや正成が勝利する見込みはまったく無く、それどころか生きて帰れる望みも無い。今生の別れをすべく正成は、出陣の門出に息子の正行を呼び寄せた。正行は、父が自分にいったい何を知らせたいのか知らぬまま青葉時雨れる桜井の駅に参上し、そこではじめて、自分の父が死地に赴く事を知らされる。正成は正行に、自分の死後は足利が力を蓄えて天下を掌握するであろうと予言し、そのとき惰性に負けて保身を願い足利に従う事を戒め、武士らしく最後まで後醍醐天皇に尽くすよう言い残す。それが自分が今まで築いてきた忠義の道を汚さぬ事であるととうとうと語る。正行は「自分も武士の子であるから、どうして父上様のみを死なせようか」と正成の袖にすがり、ともに出陣する事を懇願する。正成は「いまだ若年のおまえが何を言う!」と叱り付け、時節を待つ事を諭し、「汝の孝行、これに過ぎたることはない。」と形見に所用の短剣と巻物を渡す。「湊川へと、急ぐなり」それは死地に赴く正成の無念の慟哭を歌い、当地神楽の珠玉の節回しで観客の涙を誘うのである。 やがて悪役の面をつけた侍衆が5〜6人ほど舞台に登場し、そのうち一人が足利尊氏を名乗る。横には束帯烏帽子姿の弟直義もいる。西国から取って返した尊氏は、天皇が正成を見捨てたのを好機と見て、30万の大軍を持ってこれを殲滅にかかる。兵を家来衆に分け与えていると、正成が高らかに名乗りをあげて登場し、弟正季と2人で足利勢と奮戦する…。 (1枚目)紫波町日詰上組平成12年、盛岡と組平成11年の借り上げ。誰が言うともなく、これは桜井で正行と別れ湊川に出陣する場面とされている。馬が歩みだしており、菊水の幟を手にした従者も同様に歩みだす足つきである。豪華で格調高いよく出来た構想で、他のどの演題にもない独特の空気を持っている。(2枚目)一戸町上町組平成27年の見返し、表は『四条畷』。端正な若武者の人形で凜とした正成が表現され、正行の悲しみもその角度が上手く醸しており、表の趣向に最高の余情を加えた。(3枚目)青森県鰺ヶ沢町の山車で、桜井駅の別れを作ったもの。岩手のような風流人形ではなく、山車を出す際は毎回この趣向を使う。背面には菊の紋を大きく染めた幕を張る。(4枚目)二戸まつりに出た俗にいう「平三山車」で、正成が白馬に乗って奮戦する湊川合戦の場面を飾っている。
天下の大乱 鎮めし男 忠義に厚き 大楠公
こうして見出された河内国の土豪「楠木正成(くすのき まさしげ)」は類まれなる軍略の天才であり、家来からの人望もきわめて篤い名将であった。居城の千早城(ちはやじょう)では藁人形に鎧を着せて敵をおびき寄せ、やってきた北条の大軍の頭の上から巨岩・煮立った油などを振り撒いて翻弄するなど、寡勢で大軍を破る奇想天外な戦術を展開、稀代の名軍師としてその名を大いに高め、堅牢と思われた鎌倉幕府の屋台骨をうち崩す。
かくして天皇に尽くし建武親政(けんむの しんせい)を実現させた正成だったが、やがて親政の矛盾に多くの武士が離反し、足利尊氏の下に走ってしまう。正成は奇策を弄して尊氏方に対抗するが、公家衆の妬みをかって次第に意見が通らなくなり、足利の大軍を湊川(みなとがわ)にて正面から迎え撃つという死地に立たされた。正成は死を覚悟して息子多聞丸正行(たもんまる まさつら:後に四条畷で戦死する楠木正行)に七代に亘って帝に尽くすよう遺言し、湊川へと向かう。少勢で奮戦するも空しく、敗色濃厚と見た正成は弟とともに民家に駆け込み、火を放って壮絶な死を遂げた。
盛岡山車では、正成の出陣の様子を従者と馬をつけた三体飾りで豪華に描いた橘産業昭和50年代の『大楠公出陣』がよく知られている。平成に入ってからは同構図を盛岡のと組が写した他、一戸の本組・橋中組、沼宮内ののろ組がおのおの趣向を凝らして正成の山車を出している。このうち本組の一作は大河ドラマ「太平記」が放送された平成3年に出たものだが、ドラマの主役であった足利尊氏の山車は遂に出なかった。この山車の見返しは、稲村ケ崎に宝剣を捧げる新田義貞であった。
他地域に上がった趣向の中では、皇居の楠公像をそのまま台車にあげたような八戸の山車(拡張前のもの)が印象深い。飾りを一切伴わず、楠公像を台座ごと表し菊の紋のところには菊の造花を一輪飾ったようである。
(参考)南部神楽の『楠公』〜桜井の別れから兄弟自刃まで〜
楠木正成は南北朝動乱の時代に活躍した英雄の筆頭に上がる人物であり、『太平記』に描かれるもっとも義に篤い、正義の武将である。忠義に生き忠義に殉じた潔い生き様は、戦前においては忠君愛国の体現者として”大楠公”の名のもとに称えられた。一関地方の神楽が演じる『楠公』は、そんな正成にまつわるエピソードのうち最も観客の心を打つとされる桜井の駅の別れ、そして死出の出陣湊川での孤軍奮闘、最後は弟正季とともに民家に駆け込んで壮絶に自刃する場面までを実にドラマチックに描いた名曲である。
拍子が静まり、現れたのは全身を矢ぶすまにして足取りもおぼつかない正成と正季。激しい戦いに疲れ、もはやこれ以上戦う気力も無い。自刃を勧める弟に応じ、正成は自分の心に一抹の未練があることを恥じる。それは、青葉時雨れる桜井の駅にて、我が子正行と別れたあの日の情景であった。我も戦場へ…と袖にすがった正行を叱り付けてしまった自分、ああ、なぜあの場で見事な武士の心がけと褒め称え、力いっぱい抱きしめてやる事が出来なかったのか。桜井の駅を振り返り、振り返り後にする息子の姿が、どうしても自分のまぶたに焼き付いてはなれない。そう言って、正成は自分の現世への執着を嘆くのである。「おろかな仰せぞ、兄上様よ。」正季はそんな兄を「地獄の道には迷わずとも恋の闇路に迷う人間の性(さが)」、まして手塩にかけた妻子への情愛になんの恥じ入る事があろうかと慰め、「残る未練は湊川に流して…」と念仏を唱え、正成もそれに唱和し、短刀で互いの胸を突き刺して壮絶に果てるのである。
…ここまでの叙述は平成13年8月、北上みちのく芸能まつりにおいて披露された川崎村(現 一関市)布佐神楽保存会による公演の印象を元にしている。近世から近代にかけて、この種の一大抒情詩がいかに多くの観客の涙を誘い、一人の英雄の生き様に思いをはせさせたであろうかと感じるにつけ、私自身とめどなく落ちる涙にほとんど前が見えないほどであった。とにかくすべての台詞が絶妙で観客の心を高揚し、最後の正成の自嘲のくだりがそれまでのすべての前提を感涙の所以として凝縮させている。この美意識は当地の神楽ならではのきわめて演劇性の高い、それでいて中央の雅な洗練をあえて拒絶した本気で泣かせる芝居として見事な完成をみているのであり、民衆の生んだ文化がいかに輝かしいものか、十二分に物語ってくれた。
以来たびたび岩手県南に足を運び、当地の呼ぶ「南部神楽」を楽しんでいる。
(掲載写真)
文責・写真:山屋 賢一
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絵紙
風流 大楠公
一戸橋中組
盛岡と組・日詰上組(本項)
沼宮内ろ組
二戸福岡愛宕
二戸福岡長嶺(本項)盛岡橘産業
日詰上組
沼宮内愛宕組
一戸本組(新聞広告)
青森八戸一戸橋中組(香代子)
盛岡と組(正雄:色刷)
盛岡橘産業(富沢)
一戸本組(香代子)
建武の中興(ちゅうこう) 武将の誉れ かおる菊水(きくすい) 大楠公
智勇稀なる 武将がここに 誉れも高く 大楠公
尽くす忠義は 昔も今も 変わることなし 大楠公
千早城(ちはやじょう)に 菊水なびく 楠木ゆかりの 旗印
智勇稀なる 武将がここに 戦鼓響きし 湊川
軍師正成 内光放つ 悲運闘将 名を高く