盛岡山車の演題【風流 雨の五郎】
 

雨の五郎 い組

 



「巻物なし」盛岡八幡町い組昭和61年
 大石蔵之助は主君浅野内匠頭の仇討ちを企んでいた。しかし仇である吉良上野介は用心深く、刺客をたくさん雇って屋敷を守らせていた。そこで大石はスパイの目を欺くために、わざと花町、いまでいう歓楽街を毎晩のように遊び回った。かくして敵を油断させ見事に本懐を遂げるのが、有名な忠臣蔵の仇討ち物語である。日本最古の仇討ちは鎌倉時代、曽我兄弟によるものである。その一部始終をつづった「曽我物語」と呼ばれる戯曲の一群に、花町の大石とよく似た話がある。盛岡山車ではこの場面を『雨の五郎』と呼び、よく山車に出す。
 雨の五郎は「廓通いの五郎」とも呼ばれ、五郎とは仇討ちに赴く曽我兄弟のうち、弟の曽我五郎時致を指している。色男の五郎は敵の目を欺く為に、毎夜毎夜めかし込んで花町に通った。馴染みの遊女「化粧坂の少将」の恋文を両手にだらりと垂らし、紫頭巾に金糸銀糸の羽織、黒に赤い鼻緒の下駄を履き番傘を差して吉原に駆け出す姿はこの上なく粋で、男ながらの色気を感じさせる。

「巻物・黒」盛岡八幡町い組平成元年
 盛岡山車の雨の五郎は、盛岡山車の大師匠ともいうべき八幡町のい組が作り出した。初回構想は昭和50年代中頃と定番の割りに歴史が浅いが、その後定型といわれるほどに盛作されて現在に至る。第一作は、恋文の巻物をだらりと両手に広げる姿で作られた。第二作では、番傘のみを持って見得を切る姿が構想され、ともに甲乙付け難い見栄えのする構図であったため、どちらの構図も市内および盛岡市外の山車組に模倣された。衣装は白を基調とするものと黒を基調にするものがあり、どちらかといえば照明に映える白が好まれている。傘は白地に淡い紺の蛇の目模様、簡潔で色彩に富み、衣装と華やかさとあいまって大変綺麗な山車に仕上がる。平成20年現在、白の繻子で巻物を伴った形に仕上げるのはい組、同じく白で巻物を伴わない方を作るのは弟子筋のの組、と定まりつつあるが、今後もさまざまな組で試される演題となるであろう。

※い組『雨の五郎』の伝承経路(下記の流れが傍からさらに模倣、修正された)

@盛岡八幡町い組昭和56年、白装束巻物あり→A石鳥谷上若連昭和58年→B沼宮内新町組昭和60年→C盛岡八幡町い組、巻物を除く(昭和61年)→D盛岡さ組平成4年、E盛岡の組平成9年 C盛岡八幡町い組、黒衣装で作る(平成元年)→D石鳥谷上若連平成3年

『かむろ』盛岡八幡町い組昭和61年
 柳や雪洞が脇に立ち、背景には川端の垣根を作る。これらは、同じく花町を舞台にする見返し『羽根の禿』『鳥追い』『吉原すずめ』などにも応用される、廓を連想させる小道具である。

 雨の五郎に対応する見返しとして、い組は長らく『かむろ(禿)』を飾ってきた。かむろとは、花町で遊女の世話をする下女のことで、赤い着物を着た少女の姿である。ただ赤いだけではつまらないので、若梅の刺繍が両袖に入る。い組のかむろは五郎に遊女からの手紙を届けにいく姿をイメージしているため、黒い文箱を手にしているが、他の組ではこの構図をほとんど真似ておらず、羽子板を持った『羽根の禿』を雨の五郎とは無関係に作っている。

 

文責・写真:山屋 賢一


(音頭 名句撰)

廓通いも 仇討つ為の 艶を含んだ あで姿
  い組(盛岡市)
纏う黒繻子 吉原通い 今宵霞の 雨の五郎
  城西組(盛岡市)
八重に九重 十八番の歌舞伎 花の姿絵 当たり芸  上組(紫波町)
廓五郎と 艶名を残し 見事本懐 遂げし曽我  三番組(盛岡市)
花の色町 大磯通い 春の装い 化粧坂
  い組(盛岡市)ほか


※八幡町い組「見返し 禿」
色香も知らぬ 吉原育ち 運ぶ文箱は 恋の文  
梅のすがたも 静かに濡れて 仄かな色香 春の宵


  

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