盛岡山車の演題【風流 安倍貞任・北天の魁・奥州安達ヶ原・安倍宗任・前九年の合戦・後三年の役・藤原秀衡】
 

安倍貞任

 

「厨川」盛岡新田町か組平成元年


『北天の魁 安倍貞任(馬上の貞任)』盛岡仙北町は組昭和62年

 安倍貞任(あべのさだとう)の山車は、東北新幹線開通などを通して「岩手県民意識」というものが良く考えられるようになった昭和50年代に登場し始めた。
 安倍氏は平安時代に奥六郡(おくろくぐん:現在の岩手県のほぼ全域)を治めていた豪族であり、前九年の役(ぜんくねんのえき)にて朝廷の派遣した鎮守府将軍源頼義・義家(みなもとの よりよし・よしいえ)親子に討伐された。9年間の長きに渡る戦いだったので「前九年」といい、いまも盛岡市内に前九年町という地名が残っている。
 前九年の役については、長らく源氏方の記した「陸奥話記(むつ わき)」のみが考証の根拠とされ、学校の歴史の教科書にすら「奥州の野蛮で乱暴な一族が朝廷に逆らって反乱を起こした」と紹介されてきた。しかし近年さまざまな研究により、「朝廷の不当な侵略から身を挺して故郷を守った英雄こそ安倍一族なのだ」というのが定説になりつつある。実質12年の長きにわたって都からの大軍を引き受け戦った安倍一族に、同じ東北人として共感や憧れを抱く人も増え、山車絵紙の解説を見ても非常に情感のこもった記述が多いようである。

 山車にあがる定番の姿は、安倍一族が壊滅する厨川合戦(くりやがわ:古戦場は岩手県盛岡市)の場面である。兜を捨てて髪を乱した不精髭の貞任が、都の兵卒を踏みつけて太刀を振り上げている。決してきらびやかな武者人形ではないが、鬼気迫る雰囲気に満ちた迫力のある演し物だ。盛岡の三和会が案出し、潰し人形を省いた形で日詰・石鳥谷などに登場した。平成に入ってからは、盛岡では新田町のか組、また「炎立つ」(後述)に因む形で沼宮内のろ組が製作している。盛岡のや組では同じ体勢をとりつつ落ち武者でなくきらびやかな鎧姿に仕立て、柵を守って矢玉を振り払う2体飾りとした。弟の宗任(むねとう)の山車(※注)は定番とならなかったが、貞任は定番となった。
(※注:前九年合戦に絡む演題としては一番最初に作られたもの。捕虜となった安倍宗任が都人に嘲笑されたとき、咄嗟に梅の花を題に採った和歌を詠んで、その教養を知らしめたという話を飾った山車で、束帯姿の宗任と梅の一枝を捧げた平安官女を並べている。)

「歌舞伎の貞任」盛岡城西組平成4年

 盛岡で出た騎馬武者の山車数ある中で特に評価の高いものに、仙北町は組の『北天の魁(ほし)』がある。これは、馬上の貞任を豪華に飾り上げた秀作である。完成度の高さに加え、貞任を題として或る種の象徴性を表現したことが、盛岡人に後世まで語り継がれる所以となった。

 歌舞伎に残る前九年合戦の演題として、盛岡の城西組は「奥州安達ヶ原(おうしゅう あだちがはら)三段目」の安倍貞任を山車に出した。公家に化けて敵方の源義家を討とうとした貞任が、正体を暴かれて安倍一族の旗を掲げ、開き直りの大見得を切っている場面である。秋田の角館をはじめ他県ではたびたび取り組まれている歌舞伎演題だが、盛岡山車で採り上げられたのはこの作品が初めてで、今なお珍しい演題である。

「貞任・宗任」盛岡新田町か組平成5年

 平成5年にはNHK大河ドラマ「炎立つ(ほむらたつ)」で更に東北古代史が脚光を浴び(あくまで地元の話である)、一戸町では『安倍頼時(あべのよりとき:貞任宗任兄弟の父)』の騎馬姿を山車に飾って、見返しを貞任とした。二戸まつりには大河ドラマそのままの姿、前立ての無い兜・黒っぽい鎧の上から毛皮をまとった異色の意匠の貞任が出た。盛岡市内でも貞任宗任兄弟の鎧姿を並べた『前九年の合戦』がつくられ、数年後には沼宮内でも構想を写している。
 大河ドラマに同調する演題が周辺域にとどまらず盛岡市内にまで登場した例は珍しい。県民の注目度はもとより、前述の厨川のモチーフが創作から十数年の間に深く盛岡山車に浸透していたことも、炎立つ放映年周辺における盛作を可能にしたのであろう。


「藤原清衡」盛岡市青山町青山組平成20年

 安倍一族滅亡の後日談『後三年合戦(ごさんねん かっせん)』を主題とした藤原清衡(ふじわらの きよひら)の山車も、盛岡祭りに登場した。平泉の文化遺産が世界遺産に登録されるか否かで岩手県中が賑わった、平成20年のことである。また世界遺産登録が決まった平成23年には、清衡の父『藤原経清(ふじわらの つねきよ)』の山車も作られた。
 厨川柵が陥落した時、経清は生け捕りにされ、敵将源頼義の前で安倍に味方した罪を問われた。この時経清は命を惜しまず信念を貫く態度を取り、怒り狂った頼義に刃こぼれした刀でなぶり殺しにされたという。さらに母親は、安倍を裏切った出羽の豪族「清原(きよはら)氏」に嫁ぐこととなり、清衡は幼少期・青年期を苦渋のもとに過ごした。成長した清衡は清原一族の内紛の中で徐々に頭角を現し、親の仇ともいえる源義家に積極的に取り入って、清原宗家「清原家衡(きよはらの いえひら)」を倒す。この「後三年の役」終結後、清衡は改めて藤原宗家を復興、平泉に中尊寺(ちゅうそんじ)を建立して奥羽に散った数々の英霊を慰めた。
 経清の山車は「炎立つ」から安倍貞任との決闘の場面を採り上げ、見返しも劇中の経清の妻の名をそのまま使って『安倍の娘 結有(ゆう)』とした。清衡の山車は『風流 後三年の役』と題し鎧姿を馬上に飾ったが、やはり装束などに「炎立つ」の面影を十分に残した。平泉関連ではこのほか、一戸の野田組が背景に金色堂を付けて『藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)』を飾っている。平成23年には二戸まつりや花巻祭りにも、背景に金色堂を凝らした義経・弁慶の演し物が多数登場した。


 
(ページ内公開)

日詰橋本組  沼宮内ろ組  盛岡や組  八幡太郎義家  藤原経清・結有

本項掲載:盛岡市新田町か組H1(厨川合戦)・盛岡市仙北町は組S62(北天の魁)・盛岡市城西組H4(奥州安達ヶ原)・盛岡市新田町か組H5(貞任・宗任)・盛岡市青山組H20(藤原清衡)・一戸町野田組H18見返し(藤原秀衡)




文責・写真:山屋 賢一


山屋賢一 保管資料一覧
提供できる写真 閲覧できる写真 絵紙
貞任厨川 日詰橋本組
石鳥谷下組
沼宮内ろ組
盛岡や組
盛岡か組(本項1枚目)

日詰上組
日詰橋本組(富沢)
盛岡か組(香代子:色刷)
盛岡や組

盛岡三和会(富沢)
馬上貞任 盛岡は組(本項2枚目) 盛岡は組
歌舞伎貞任 盛岡城西組(本項3枚目)
秋田角館
盛岡城西組(香代子:色刷)
安倍宗任 盛岡わ組 盛岡わ組(富沢)
前九年合戦 沼宮内ろ組 盛岡か組(本項5枚目) 盛岡か組(香代子:色刷)
安倍頼時 一戸本組
葛巻新町組
一戸本組(富沢)
藤原経清・結有 日詰一番組 日詰一番組
藤原清衡 盛岡青山組(本項6枚目) 盛岡青山組
藤原秀衡 一戸野田組(本項7枚目)
ご希望の方は sutekinaomaturi@hotmail.co.jpへ

(音頭)

陸奥(むつ)の判官(ほうがん) 丈夫(ますらお)貞任 歴史に残す 前九年
陸奥に伝わる 九年
(くねん)の戦 散り際たとう 厨川柵(くりやがわ)
糸の乱れに 柵跡
(さくあと)深く 安倍の一族 今に生き
武人の鑑
(かがみ) 安倍貞任が 夢やぶれたり 衣川
康平五年の 九月もなかば 陸奥の若武者 大奮戦
守る貞任 鬼神の如く 寄せ手も怯む 厨川
攻め手悩ます 安倍一族の 闘魂
(こころ)を偲ぶ 幾世まで
命をかけて 故郷まもる 貞任名残りの 柵の跡


安倍の武士
(もののふ) 弓矢にかけて 駒を進める 陸奥の里
  『北天の魁』
願いは一つ 奥羽にかけて 春待つ貞任 安倍の旗
  『奥州安達ヶ原』
陸奥の判官 貞任宗任 炎立つ地や 前九年
  『前九年の合戦』
安倍の一族 威風堂々 誇りも高く 炎立つ
  『安倍頼時』


(音頭 藤原清衡『後三年の役』)

蒼き(あおき)蝦夷(えみし)の 奥六郡(おく ろくぐん)に 建てし楽土(らくど)は 平泉
欣求
(ごんぐ)浄土に 思いをはせて 駆ける清衡 後三年
難攻不落の 金沢柵
(かなざわ さく)に 驕る家衡(いえひら) 討ち果たす


(音頭 藤原経清:ボツも含め山屋作詞)

武人経清 奥羽に立ちて かざす白刃(しらは)に 雪の影
後に蝦夷の 義将
(ぎしょう)と呼ばれ 北の楽土を 石据え(いしずえ:礎)
驕る
(おごる)源氏に 怒りて安倍に 走る心の 気高さよ
安倍に与
(くみ)して 苦闘の九年 果たす藤原 義の誉れ
勇みの経清 奥羽の風に 散りて護国の 星となる
安倍の誇りを 我が子に繋ぎ 築く楽土の 平泉


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『藤原秀衡』一戸町野田組平成18年
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